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芝右衛門狸とポン太。洲本でお待ちしております。淡路島。

こんにちは。


三熊山に建つ洲本城。


上下。


阿波国の蜂須賀家家老、稲田さんが治めることとなった淡路島。
その拠点、洲本城の下の城。

この石垣の中の洲本市立文化史料館。実はここ、とても面白いです。淡路浄瑠璃の人形、化石、稲田さんちの具足や調度品などなど盛りだくさん。

異常巻きのアンモナイトの実物がありました。

アンモナイト記事はこちら→→→
「異常巻きアンモナイトは淡路島で。ぐるんぐるんです。」




へ?


どうしたことか。

それにしても見事なまでに石垣以外なーんにも残ってません。

なんぞ遺構は残ってないのかな。探検。


下のお城の石垣。

向きをかえれば、

べいべー。

信号を渡ればすぐ大浜海水浴場で…で…


こら、ポン太!「うふん」ちゃうわー!
いけません。わたくしの品位が問われます。後ろへ回れ!


・・・まあ、かわいいおちりですこと。

怪しいタヌキではありません。洲本市マスコットのポン太です。
洲本ロータリークラブ様のいぶし銀のご活動です。

この愛すべきタヌキのポン太。お父さんが有名人。

芝右衛門狸さんです。

江戸時代、洲本の三熊山に澄んでいた芝右衛門狸。
佐渡の団三郎狸、屋島の禿狸と並んで「日本三名狸」に数えられるタヌキさんです。

どこのタヌキと化けくらべをしても、決して負けない日本一のタヌキ。
道に迷った町民や旅人を助けたり、泣いている子供をあやしたりして、皆にとても可愛がられていました。
しかし、芝居好きの芝右衛門タヌキは、人間に化けて大阪の道頓堀の中座へ芝居見物に行き、犬に見つかり噛まれて、亡くなってしまいました。

哀愁漂う狸ですが、洲本の温泉街のあちこちに潜んでいます。探してみましょー。


いつも応援いただきありがとうございます。ポン太は、洲本市の市制50周年の記念に洲本市マスコットになりました。ポーズがちと、あれですが。かわいいタヌキさんです。
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由良引け、洲本城。蜂須賀家家老・稲田さんが来たよ。淡路島。

こんにちは。

あちこちで局地的な豪雨。高山市では例年の1ヶ月分の2倍が1日で降るなんて、もう、めちゃくちゃです。

大阪府北部も、地味にえらいこっちゃ、でしてん。

さらに北部の京都府福知山、綾部がまだ土砂災害警戒警報が継続してます。


さて。淡路島。


洲本城と脇坂安治。


股の間に家紋がある人(後述する稲田君)に命令される安治くん。

1609年。脇坂安治は伊予に移り、藤堂高虎が預り城代を置きます。
1610年。池田輝政が淡路国を与えられ、三男・忠雄が、まず岩屋城に、そして、由良城に居城します。


大阪城包囲網を作るためでした。

明石海峡と大阪湾を共に監視できる岩屋。

これは岩屋の石屋神社。

石屋神社の記事はこちら→→→
いかに石屋の神ならば神。式内社の石屋神社。



そして、洲本城は廃止。


由良は、紀淡海峡に面し、海路を大阪に向かう船舶の監視に適した場所。


洲本城から見える由良城。


高台から見渡せば、怪しい動きのお船も一目瞭然。


1615年。淡路国は阿波徳島藩主である 蜂須賀至鎮に加増され、蜂須賀家家老の稲田氏一族が由良城代となります。


しかし、どうも使い勝手が悪い。

由良城を廃し、洲本城に再び本拠を移すことを決定。


「由良引け」と呼ばれる、由良城下をごっそり全部お引っ越しの作業です。

1631年から1635年、なんと4年間もかかりました。

この「由良引け」で由良城は廃城、洲本城が淡路政庁と定められ、明治維新まで稲田氏が洲本城代を務めることとなったのです。


やがて上のお城は廃され、麓に政庁機能を移します。

以降、上のお城が使われることはありませんでした。


今は、洲本市立文化史料館や裁判所が建ってます。


上のお城の場所には1928年(昭和3年)に昭和天皇御大典記念として 鉄筋コンクリート製の模擬天守が建造されました。

模擬天守は江戸時代の天守を復元していません。
しかし、模擬天守としては日本最古のもの、ってことで、別の意味で有名に。


洲本城(上のお城)
住所 兵庫県洲本市小路谷1272−2


いつも応援いただきありがとうございます。模擬天守、ちびこい展望台で景色がよくて人気だったのですが、なにせ日本最古のため、現在は立入禁止。夜のライトアップがきれいです。洲本温泉でまったりして、夜の海岸でポケーっと波の音を拝聴しながら缶炭酸麦汁ごっくんこ。さいこーです。
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淡路水軍の頭領の城、洲本城。淡路島。

こんにちは。


大阪の週末は4週連続の雨模様です。

不安定なお天気で、エリアメールがぴこんぴこん。
気温は低いけど、すごい湿気です。

さて、淡路島の洲本城。

車でてっぺん近くまで行けて楽ちんです。

もとは、熊野水軍の頭領の安宅治興が1526年に築城。
(当時はまだ、石垣ありませんでした。)


三好氏の重臣であった安宅氏は、最初に由良、洲本、他6箇所に築城。

治興の後は、養子安宅冬康(三好長慶弟だが兄に誅殺される)→信康(冬康長男)→清康(同・二男)。

1581年。秀吉の淡路攻略。

刀「名物 安宅切 脇毛落」の巻。

安宅信康は本拠地であった由良城を秀吉に明け渡し、 洲本城もこれに倣って開城。

その後の淡路国には、仙石秀久(高野山へ追放)→脇坂安治。


脇坂くん、洲本城を大改修。
現存する石垣の大部分は、この時代に造られたもの。


そして、もともと熊野水軍の頭領だった安宅氏。
彼等の率いる淡路水軍は、石山本願寺側で奮戦し、後に織田側につき織田水軍として毛利水軍と戦いました。

洲本城開城後も、ここには百戦錬磨の淡路水軍が残っています。


洲本城を改修したのも淡路水軍の本拠地とするため。


洲本の港。


慢心はだめよ。


ほらごらん。


あーあ。


小田原城攻めの「海上封鎖作戦」を行い、戦果を挙げます。


四苦八苦したであろう、脇坂安治。


頑張っておうちにお帰り。

脇坂安治は慶長14年(1609)までの24年間、ここ洲本城に在城しました。


いつも応援いただきありがとうございます。お山のてっぺんの洲本城。洲本は、温泉街として賑わってます。夏はやっぱ海ですぜい。ということで、洲本城散策は寒くなってから行きまーす。
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鳴門の渦潮と生しらす。うまー。

こんにちは。
さて淡路島。南端にはもちろん。


鳴門海峡大橋ですよねー。


道の駅うずしおの、ごはん。白い海鮮丼。生しらす、来ましたー。


お刺身を別に食べてもよし、のっけて海鮮丼にしてもよし。


甘いお出汁が出るのよねぇー。いっただきまーす!


通れませんよ。いや、そもそも電車、ないですよ。








道の駅うずしおから、橋の下に下りることができます。


難しいねえ。


困りましたねえ。


ちょうどいいところに漁船と人を発見しました。
いかがでしょう。


海が川です。


うずしおを見るには潮見表で調べて来ましょう。
大潮なら、干潮満潮の前後一時間、見ることができます。



いつも応援いただきありがとうございます。近くに来ると巨大な橋。夏はふなふなふなむっしーがいるので、足元を見ずに上を向きましょうね。
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異常巻きアンモナイトは淡路島で。ぐるんぐるんです。

こんにちは。
あちーですねぇ。皆様、お元気ですか?
大阪は、最低気温が下がらないので、暑さが身に染みます。

さて、淡路島。慶野松原から海沿いに南下して。ちょっとローカル色豊かな道を走ります。普通車なら大丈夫。

淡路島の北端から鳴門海峡大橋に行くには、西海岸線コースが交通量も少なくて、早いです。(高速除外)


「緑の道しるべ 阿那賀公園」で、休憩しましょ。


こらー。


鳴門海峡大橋を遠くに見ることができます。
東屋もあるので、お茶タイムの絶好の場所。

景色はいいし、人は少ないしー

こげなもの?これは、知る人ぞ知る、アンモナイトですよ。


淡路島南部の南あわじ市周辺には、和泉層群という中生代後期の白亜紀(1億3500万年~6500万年前)の最後期に当たる地層が分布。



和泉層群は中央構造線の北側に沿って、西は愛媛県松山市から東は大阪府和泉市、岸和田市まで約300キロメートルにも及ぶ地層群です。

この地層にはアンモナイトやウニの化石や生物の生痕化石(サンドパイプなど)が多く産出することで有名で、昔から多くの研究がされています。


淡路島では、特に世界中にここにしか存在しない珍しいアンモナイトも見つかっています。


【アンモナイト】

標準的な姿はこれですね。
殻は、同一平面に螺旋に巻いた渦巻状。断面にすると殻の中は、隔壁により区切られて個室になってます。これを、気房といい、空気を入れて浮きの役目をしたと考えられています。

かたつむりと違うんですねぇー。


体は軟体のため化石に残りにくく、未だ研究中です。


中生代も後期の白亜紀に入ると、「異常巻き」と呼ばれる奇妙な形の種が数多く見られるようになってきます。


これが、淡路島で数多く採集されるアンモナイトの「異常巻き」。
カタツムリの巻き巻きが立体的になり、さらに最後の巻きが、S字形になってます。


ここで採集できるのが、ディディモセラス・アワジエンゼ。

ディディモセラス・アワジエンゼと、プラビトセラス・プラビエンゼが、淡路島異常巻きアンモナイトの二大巨頭。

この異常巻きアンモナイトの化石を求めて化石採集の方々が多く訪れるここ。知る人ぞ知る場所なのです。

通称「ディディモ海岸」♪♪



聞くな。

このマニアックな異常巻きアンモナイトを、公園のモニュメントにしたお役場の人はすごいなー。

アンモナイトの画像はこちら。ディディモセラス・アワジエンゼが、ここらで採集された異常巻きアンモナイトです→→→→→
国立科学博物館「川下コレクションの世界」


でしょうねー。


道路工事の際には多数出土しましたが、現在では採集し尽くされ、また護岸工事などで露頭が少なくなり採集はかなり困難になってきています。


だね。



☆大体の場所なので、緯度経度は事前に地図でご確認くださいませ。


参考文献
阿那賀公園現地看板
国立科学博物館HP「川下コレクションの世界」


いつも応援いただきありがとうございます。異常巻きアンモナイトの実物は、淡路島でなら、洲本市立淡路文化資料館で見ることができます。面白いですよー。
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慶野松原で戯れる淡路島の初夏。万葉集に詠まれた白砂青松。

こんにちは。

淡路島の西海岸線を南へずーっと走ります。

慶野松原にたどり着きます。


約5万本の淡路黒松が生い茂り、白い砂浜が約2.5kmにのびる瀬戸内海でも随一の白砂青松の松原。

枝が低い位置から横に広がる特有の老木「磯馴松(そなれまつ)」は全体の2%ほどですが、ぜひ探してみましょう。

お散歩道が整備されてて、地域のボランティアさんのおかげで、ゴミひとつありません。



江戸時代には井原西鶴が『慶野松原は数万本の木振り、ことごとく異風にして、これ近くにあらば公家の昼寝所なるべきものを』と記しています。 



松原は延々と続きます。


慶野松原の美しさは古くから都人にも知られていました。

『飼飯(けひ)の海の 庭好くあらし 刈薦の 乱れ出づ見ゆ 海人の釣舟』柿本人麻呂(万葉集・巻3-256)

人麻呂の羈旅(たび)の歌8首(巻3 249~256)中 最後の1首。飼飯の海はこの慶野松原付近の海。

沖辺から次々に押し寄せる白波に海人の乗る釣舟が乱れるように動いてる。それはまるで妻の姿を思い出し心乱している人麻呂自身の心のようだ、と。





青い空青い海。


こんなきれいな海を見て、何の不満がありますか。


はい?


砂浜から、自分の背と同じ長さの枝をえっほえっほと運んで海をかき回しただけでしょ。


そうだねぇ。




いつも応援いただきありがとうございます。「日本の渚百選」「日本の水浴場88選」「日本の夕陽百選」に選ばれていて、夏場はそれはそれは海水浴客で大にぎわい。恋人さんたちの名前やプロポーズの言葉を刻んだハートの瓦が並ぶ「プロポーズ街道」も、瓦(かわら)ぬ愛を誓う鬼愛神社(おにあい、神社、ね)もあります。私には鬼門じゃ。
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藻塩焼く人淡路島の人

こんにちは。


もこもこ君も今頃は大人になってますかねぇ。


明石海峡大橋です。


久々の淡路島のご紹介です。もちろん…


画面いっぱいの生しらす丼。夏限定。うまーうまー。


この生しらす丼は、道の駅あわじ。


さて。淡路島を反時計回りに回ります。

松帆の浦から対岸を見れば、明石海峡を走る様々な船に出会えます。

『名寸隅(なきすみ)の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海人をとめ ありとは聞けど 見に行かむ

 縁(よし)の無ければ ますらをの 情(こころ)は無しに 手弱女(たわやめ)の 思ひたわみて 徘徊(たもとほ)り 吾はぞ恋ふる 船楫を無み』笠金村(巻6-935)


この長歌は726年、聖武天皇の印南野行幸の折に供していた笠金村が現在の明石市から松帆の浦付近を遠望して詠んだもの。

万葉集で「塩焼く」という歌はいくつかありますが、「藻塩焼く」と詠われているのは淡路島の一例だけ。


『来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に やくやもしおの 身もこがれつつ』藤原定家

『百人一首』で有名なこの歌。現在製塩は行われていませんが、とかく都の人は汐汲み、焼き塩、製塩の姿にえらく情緒を感じたようですね。


製塩が行われていた遺跡が西岸に残ります。それは、ここ。「貴船神社遺跡」。


貴船神社は海を見下ろす小さな丘陵に建ちます。
海と丘陵の間に南北に細長く広がった砂堆の上に立地している遺跡。



現地看板の写真。
発掘調査は、平成7年7月から12月まで行われ、その結果、古墳時代中期から奈良時代(5世紀から8世紀)にかけての製塩遺構が発見され、兵庫県下では初めての本格的な製塩遺跡となりました。


【お塩の作り方】
まず海水を煮詰めて濃縮。それを土器に入れ、炉の上に並べて煮詰め、水分を蒸発させて、残った塩だけをとり出します。この時にに使う土器を「製塩土器」と呼びます。


石敷炉(いしじきろ)の多くは径60cm㎝から120cmの規模で、形は円形や楕円形等いろいろ。炉は、確実なもので22基発掘。

石を敷けば地べたで焼くより、熱効率よく焼けます。
四角い器より丸い器の方が火に接する面が多く、これまた熱効率よく。


使われている石材にはチャート、花崗岩,砂岩など。花崗岩や砂岩は焼けると割れやすいので、元の形を残していないものも。

製塩土器は、塩水を煮詰め塩を取り出した後、廃棄されるため、炉の周辺では多量に出土します。

見つかった製塩土器は、弥生時代の終わり頃から奈良時代までのもの。特に古墳時代後期の製塩土器は、層になった状態で出土し、土器捨て場そのものだったので、恐らく、この地で塩づくりは、この時期が最も盛んであったと思われると。


発掘されたたこ壺。


同じく発掘された新羅陶器。あひゃひゃひゃー。


製塩作業の想像家族。おかーちゃん、頑張る。

他に竪穴住居跡2棟と墓が見つかっています。住居跡は、1辺4m前後の方形。北側に竈(かまど)を設け、砂地のため床面には粘土敷き。



こんな日常だったのかな。

それから、墓は、石を組み合わせた箱式石棺ですが、地滑りの影響で壊れています。幅40cm・長さ170cm以上の大きさ。
箱式石棺の内側が焼けていて、その原因・主旨は不明。副葬品は未使用の製塩土器だけで、他のものよりは丁寧に作られていたそうです。(以上説明は現地看板による)

さて。帰る前にご挨拶していきましょ。

復元家族が楽しかったです。


龍かと思ったらタツノオトシゴでしたか。


お参りして、ちょっと泣く。残念。



在庫全部持っといでー!!


いつも応援いただきありがとうございます。古代の淡路国は、『延喜式』や平城宮出土の木簡から、税として塩を納める国だったことが知られています。海岸部では、製塩土器を出土する遺跡が点々と見つかっていましたが、これまで炉跡を伴った製塩跡はなく、淡路での塩づくりの様子が具体的に明らかになった遺跡として貴重です。

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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。


淡路廃帝淳仁天皇と母当麻氏を探してたまねぎ畑へ。

淡路島には、天皇陵があります。


■代数 第47代
■御父 舎人親王
■御母 大夫人山背
■御陵名 淡路陵(あわじのみささぎ)
■所在地 兵庫県南あわじ市賀集
(宮内庁ホームページより)


◇淳仁天皇(733年- 765年11月10日)
在位:758年9月7日 ‐764年11月6日
古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)。
諱は大炊、践祚前は大炊王。

天武天皇の皇子・舎人親王の七男(3歳で父と死別)。

仲麻呂の推挙により立太子。実は大炊王は藤原仲麻呂の子(真従)の未亡人粟田諸姉を妻とし、仲麻呂の私邸に住んでいた。

758年に孝謙天皇から譲位を受け践祚(桓武天皇以前は即位と同義)。同時に孝謙天皇は、太上天皇(孝謙上皇)となった。


◇藤原仲麻呂(恵美押勝に改姓改名)
祖父は藤原不比等。父は不比等の長男武智麻呂(藤原四兄弟は、武智麻呂、房前、宇合、麻呂)。



淳仁天皇は即位後、小治田宮や保良宮に行幸して事実上の仮の宮殿としていた(平城宮の改築、仲麻呂の政策による)。

天皇の保良宮滞在中に孝謙上皇が弓削道鏡を重用し始める。危機感を抱いた仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇と道鏡との関係について諫言。これを契機にして両者の関係は対立。


孝謙上皇・道鏡 VS 淳仁天皇・仲麻呂


762年6月28日、孝謙上皇は「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」と宣告。

764年9月11日、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱。
仲麻呂は劣勢になり息子が国司をしている越前を目指し、宇治から近江へ。上皇側の責任者・吉備真備(70歳…)が勢多橋を落としていたので、湖東の陸路を断念。湖西から琵琶湖上を航路で東を目指すも難破寸前で、湖北の塩津に上陸。



上皇側と戦うが、湖東の三尾(近江国高島郡)まで追い詰められ、湖上へ逃れようとしたところを捕らえられ、湖畔で斬首された。

淳仁天皇は、仲麻呂の乱には同行していないものの、「仲良し」を理由に上皇に廃位を宣告され、淡路国へ流される。皇位は孝謙上皇が重祚、称徳天皇となる。一方、淳仁天皇は、廃位のため太上天皇号(上皇)にはなれないどころか、天皇の数にも入れられず。


「天平神護元年十月庚辰、淡路公、幽慎ニタエズ垣ヲコエテ逃グ。守佐伯宿禰助、接高屋連 並木等、兵ヲ率イテコレヲサエギル。公、還リテ明日院中に於テ甍ズ」(続日本紀)

765年10月、「幽憤に勝(た)えず、垣根を越えて逃げたが、明日、院中に薨(みまか)りぬ」。死因不明。薨年33歳。

逃亡をはかった翌日、お亡くなりに。怪しい。

暗殺の疑いが濃い淳仁天皇は、怨霊として皇室を悩ます故に、772年、光仁天皇が僧侶60人を派遣し、斎を設けて、その魂を鎮めた。だが「廃帝」のまま。

明治3年7月24日(1870年8月20日)に、ようやく、弘文天皇(大友皇子)・仲恭天皇と共に明治天皇から「淳仁天皇」と諡号を賜られた。



明治6年(1873年)には、同様に配流先で歿した崇徳天皇を祀る白峯神宮に合祀された。

そんな背景を思いつつ、拝見。

あれ?


淡路島のたまねぎは、水にさらさなくても生で美味しくいただけます。


確かに畝ですねぇ。

そして、淳仁天皇陵から数百メートルのところには

母上の「大夫人・当麻山背」も共に淡路島へ流されてきたのです。




お邪魔申し上げます。


のどかです。


ここからは、息子のお姿が見えます。


息子がお呼びです。


もちろん、息子からも母上のお姿が見えます。

なんだか、ほっ…。


さて、淳仁天皇に纏わる場所がもうひとつあります。





次回はこちらをご紹介致します。


いつも応援いただきありがとうございます。淡路島の名産品たまねぎは、辛味が少なくて使いやすいです。今回も箱買いしてきました。
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ぽちぽちぼっち、ありがとうございます。


伊弉諾神宮の神楽から大河の一場面「三番叟」へ脱線。


湿気も加わり、暑さ倍増。これぞ大阪の夏。

さて、伊弉諾神宮。

さくっと摂社・末社をご紹介。本殿向かって右から。










他の建物が明治に建てられた中で、これは阿波藩が寄進したもの。
ひっそりしすぎていて、皆がスルー。観てあげてー!

本殿左。




くるっとまわってきたら、拝殿で神楽してました。


ちなみに先日の大河「軍師官兵衛」で信長が観ていた、黒い面のじいさまが鈴を持っていたのは「三番三」(大蔵流では三番叟)の「鈴の段」。演者は狂言方の野村万蔵先生。

「翁」並びにそれに連続して行われる「三番叟」。
能楽ではなく神事の扱いのため、演者は出番前に鏡の間(控えの間)で火打ち石による切り火等により身を清めます。

第一に千歳が露払いの如く舞い、おシテがその間に舞台上で「白式尉」の面をつけ、天下泰平・国土安穏の謡と舞を行います。


この型は、翁だけの独特の姿です。

続いて狂言方が、直面(ひためん。面をつけない姿)で足拍子を多く踏んで舞台を清める「揉の段」、続いて黒式尉の面をつけて五穀豊穣を祈って種蒔きの仕草のある「鈴の段」を舞います。

よーく画面を見ると、小鼓が三人います。これも、翁だけの独特の姿です。

ご覧になってない方はぜひ再放送で…。




伊弉諾神宮の御値段表。ご参考まで。


いつも応援いただきありがとうございます。ストーリーそっちのけで、三番叟の場面だけ繰り返し観てしまいました。
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ぽちぽちぼっち、ありがとうございます。

伊弉諾神宮の社殿を観察。すると、ながーい友達が。

こんにちは。あまりに暑いので、会社からの帰りにところてんを買いました。わくわくわく。

三杯酢のさわやかーな味をお迎えするべく用意された舌と胃なのに。

黒蜜のところてん

を、買ってきてしまった。

私が求めたのは、もっちゃりまったり極甘な世界へようこそー!な、ところてんではない。

仕方がないので、ポン酢をかけた。

「お鍋には、ま、ろにー、ちゃん♪」…になってしまった。ううう…(T_T)関西のところてんには、注意しなくては。


さて。伊弉諾神宮。

昨日はうっかり正門を出てしまったので、もう一度入ります。




お参りお参り!


文政〇年四月吉日の銘。
「あ」には見えないお口が素敵…。


からかってはいかん。


二人とも、大人の事情ですか?ほう。


お賽銭箱にも光る神紋。


拝殿背後に控える幣殿の中門。


古来、ここが神域でした。


本殿のこの形を「流造」といいます。正面の屋根が長く(非対称)、曲線を描いているのが特徴。


平安後期から見られる神社の建築様式。


ね。


花粉症はスギだけではない…。


本殿横に、このようなものが。


鉄砲玉かと思った。


わかったから。もう、亀はいいから。




いつも応援いただきありがとうございます。また亀さんに戻ってしまいました。次回はお社いろいろをお届け…したい。
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すみません…ぽちぽちぼっち、ありがとうございます。



おまけ

文蔵先生のこの手が好きです!!

プロフィール

つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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