洲本城東の丸。水軍を率いる頭領の城
こんにちは。

脇坂安治時代の石積がてんこ盛りの洲本城。

三熊山に最初に築城したのは室町末期の1526年。三好氏の重臣・安宅治興。
熊野水軍の頭領である安宅氏は、由良を拠点として島内八箇所に築城。
そのうちの一つが洲本城。
ポイントは、安宅氏が水軍の頭領であること。
治興→養子・安宅冬康→長男・信康→二男・清康。

安宅氏時代は、石山本願寺と対立する信長側につき、彼等の率いる淡路水軍は毛利水軍とも戦いました。
しかし、織田信長により淡路島攻略の命令が出されると、三好・安宅氏は永らく信長と対立。
松永久秀が信長に討たれると、安宅信康は本拠であった由良城を羽柴秀吉・池田元助らに明け渡し、 洲本城もこれに倣って開城(1581年)。
安宅氏時代は石垣の城ではなく、洲本城が現在の形となるのは、1582年に一瞬だけ入城した仙石秀久と、その後に入った脇坂安治の時代。

脇坂安治は淡路水軍を吸収し、洲本城を水軍の本拠地とします。

この淡路水軍は豊臣水軍の中核となり、北条氏の小田原城攻めで海上封鎖作戦を行い戦果を挙げました。

(クリックで拡大)洲本城概略図
洲本城は三熊山に作られた城。尾根の東西に拡がります。
北側には異国での戦いから学んだ登り石垣が東西に二本あります。
東側の構築物が一番最初に作られたとか。
まず、東端の東ーの門から入ってみます。

洲本から120m程の比高。
おんぶ~っと言いつつ、大手口まで車で来てます。へへ。

武者溜の広場。
ここに洲本城に勤務する武者さんがたむろしていたのかしら。

安宅氏は水軍の頭領。

石垣を増改築した脇坂氏の前に、ここ、三熊山に目をつけた安宅氏。
当然、城からも水軍の動向が見えるようにしたことでしょう。

当時のように樹木を伐採すれば、海が見渡せる位置。

馬屋、という場所からは南側の由良方面も見渡せます。

敵方の攻撃に備える為の城ならば他に適した場所があるでしょうが、淡路水軍を率いるには、ここが最適だったのですね。
いつも応援いただきありがとうございます。洲本城のある三熊山。先端はそのまま海。水軍さん達がこの海を動き回っていたかと思うとわくわくします。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

脇坂安治時代の石積がてんこ盛りの洲本城。

三熊山に最初に築城したのは室町末期の1526年。三好氏の重臣・安宅治興。
熊野水軍の頭領である安宅氏は、由良を拠点として島内八箇所に築城。
そのうちの一つが洲本城。
ポイントは、安宅氏が水軍の頭領であること。
治興→養子・安宅冬康→長男・信康→二男・清康。

安宅氏時代は、石山本願寺と対立する信長側につき、彼等の率いる淡路水軍は毛利水軍とも戦いました。
しかし、織田信長により淡路島攻略の命令が出されると、三好・安宅氏は永らく信長と対立。
松永久秀が信長に討たれると、安宅信康は本拠であった由良城を羽柴秀吉・池田元助らに明け渡し、 洲本城もこれに倣って開城(1581年)。
安宅氏時代は石垣の城ではなく、洲本城が現在の形となるのは、1582年に一瞬だけ入城した仙石秀久と、その後に入った脇坂安治の時代。

脇坂安治は淡路水軍を吸収し、洲本城を水軍の本拠地とします。

この淡路水軍は豊臣水軍の中核となり、北条氏の小田原城攻めで海上封鎖作戦を行い戦果を挙げました。

(クリックで拡大)洲本城概略図
洲本城は三熊山に作られた城。尾根の東西に拡がります。
北側には異国での戦いから学んだ登り石垣が東西に二本あります。
東側の構築物が一番最初に作られたとか。
まず、東端の東ーの門から入ってみます。

洲本から120m程の比高。
おんぶ~っと言いつつ、大手口まで車で来てます。へへ。

武者溜の広場。
ここに洲本城に勤務する武者さんがたむろしていたのかしら。

安宅氏は水軍の頭領。

石垣を増改築した脇坂氏の前に、ここ、三熊山に目をつけた安宅氏。
当然、城からも水軍の動向が見えるようにしたことでしょう。

当時のように樹木を伐採すれば、海が見渡せる位置。

馬屋、という場所からは南側の由良方面も見渡せます。

敵方の攻撃に備える為の城ならば他に適した場所があるでしょうが、淡路水軍を率いるには、ここが最適だったのですね。
いつも応援いただきありがとうございます。洲本城のある三熊山。先端はそのまま海。水軍さん達がこの海を動き回っていたかと思うとわくわくします。



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