巨木立ち並ぶ亀岡市佐伯の御霊神社

こんにちは。


京都府亀岡市、佐伯の御霊神社。


昨日の画像では、木の精がわかりにくかったようですので。


こう見えた。

見間違いにひたすら驚いたあと。


心臓ばくばくさせつつ、お詣りです。


つるべの残る手水舎。


若葉萌える季節にもう一度来たいなぁ。


もぉー。聞こえてるよー。

創祀は大同元年(806)。

貞観五年(863)に悪疫が流行り、悪疫を除くことを願って怨霊を慰め鎮めるために祈願したと伝わります。

いわゆる「御霊信仰」ですね。

「御霊」とは非業の死を遂げた怨霊に対する尊称。
怨霊の祟りを避け、慰撫し、祀り上げて守護する存在へと転換したものが御霊神社。

御所の清涼殿で祈願され、五基の御所燈籠を下賜されて始まったのが、「佐伯燈籠祭り」。


ちび狛ちゃんのいる稗田野神社もまた同じ。

御霊神社は下社、稗田野神社は上社。


ポリバケツに入っているけど、悪疫退散のお砂がありました。


願いを込めた千羽鶴がいっぱいだった理由です。

さて。御霊神社。


おつむが悪いです。


それは残念だわ。


素敵な社殿だなー。


本殿。


らくがんの優しい甘さが好きなんだなー。


御霊神社。

【祭神】

大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)

孝元天皇(第8代天皇)とされています。
実在が疑問視されている欠史8代の一柱。

彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)
四道将軍の一人「吉備津彦命」。
孝元天皇とは異母兄弟。



よーく見ると、いろんなひとがいますのよ。


天女か、迦陵頻伽(かりょうびんが)かなー。


妻側は賑やかです。てっぺんに、屋根を支える力士みたいなひとが。


お耳が長いので、うさぴょんかしら。


あはははは。


木材そのままの鳥居。


その横に、なにかいる。


らぶらぶ灯籠。


本殿向かって右奥に、こんな石組。


水があったらきれいだろうなー。


三方を土盛りに囲まれた境内には、ムクノキの巨木が林立。


えへへ。


本殿向かって左の境内社。

お稲荷さんなのですが。

が。


めっちゃ笑ってる。


大阪でさえ聞いたことない会話ですが、何となく聞こえてきます。


これは、ムクノキ。

胸高幹周8メートル半、樹高22メートル。

亀岡の名木の中で単木としては最大で、京都府下でも最大級の巨木ですって。


本殿と比べると一目瞭然。


伝わるとよいのですが。


鎮座地は、稗田野町佐伯斉ノ神。

元は塞の神だったのでしょう。

塞の神は道祖神とも呼ばれ、邪神・悪霊や悪病神を村の入口で塞ぎ防ぐ神様。


とても素敵なお社の杜に包まれた御霊神社でした。


御霊神社

《住所》京都府亀岡市薭田野町佐伯斉ノ神41




いつも応援いただきありがとうございます。
土盛りに囲まれた境内、住宅が隣接しているとは思えない空気と光景でした。ざぶざぶと落ち葉を踏みしめながら、大きなムクノキのまわりをぐるぐる。普段は自然に触れることもないので、気持ちがよかったです。夏ならもっと青々とした葉が生い茂るんだろうなー。でも、蚊がいそうなので、来れないなー。ざんねーん。

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青い目の狛犬と佐伯灯籠祭。京都府亀岡市

こんにちは。


亀岡市の稗田野神社。


稗田阿礼社がありますが、名前が近いだけでご縁はないそうで。


お読みくだされ。


境内社のえびす社。


青い目の狛さんです。


めっちゃカメラ目線。かわいいなー。


芸達者です。



【佐伯郷燈籠祭】(国指定重要無形民俗文化財)

佐伯灯籠は亀岡市旧佐伯郷四社(稗田野神社、御霊神社、若宮神社、河阿(かわくま)神社)の五穀豊穣の神事と盆行事が集合した夏祭り。

寛喜元年(1229)朝廷より賜った五基の神燈籠と台燈籠を中心に斎行。
1700年代半ばまでは勅使を迎えて行われました。

享保二年(1717)の『諸国年中行事』では「丹波のさいきむらの灯籠まつり」と記されているとか。

特に面白いのは、間口が約180センチメートルの大きさの台灯籠を舞台に上演される、文楽完成以前の形態を残す人形浄瑠璃。


用いるのは、わずか35㎝の「串人形」。

ちっちゃー。

さて。

この灯籠祭、女性側から夜這いするお祭りだったようで。


おほほほ。


何とも日本の農村らしい風習です。

稗田野神社で神移しを行い、五穀の実生を乗せた神輿は、御霊神社へと向かいます。


佐伯郷四社のひとつ、御霊神社。

稗田野神社を上社、御霊神社を下社とも称するニコイチのお社。


巨木が林立するお社です。

木の精かー!?


わたしゃ~ほんとにびびったのです。

つづく。


いつも応援いただきありがとうございます。
稗田野神社は、狛犬さん達がかわいくてうっきうきだったのですが、御霊神社はまた趣の異なるお社でした。御霊神社の社頭の巨木の根っこ、ちびりそうなほど驚きまして。ちょっとお茶を飲んで落ち着いてから、お詣りしました。

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稗田野神社の牡丹とちび狛犬。一級品

こんにちは。


京都府亀岡市の稗田野神社。


なんかいる~なんかいる~。


きゃー♪こまちゃーーーーん!


もう一人、いた~♪


垂れ耳がツインテールみたい。

おすわりした高さ、150cmはあろうかと。


きゃ。ちびちゃん。


うんうん、おみかんだね。


おみかん、かなー?


獅子と牡丹、よね。


きゃー。


とても細かい彫りの狛犬さんです。お見事。


お?


おおお。


すみません。すみません。


眠くて不機嫌。


どこから見ても、とても丁寧な細工の狛犬さんです。


かーちゃんの足元にあるのは、こぼれてしまったお顔の一部。


大切に保存されています。


ちびちゃん、賢い。


お花見、れっつご~♪


ちび狛ちゃんの独り言。


ちょっととぼけてみたちび狛ちゃんなのでした。


稗田野神社
《住所》京都府亀岡市ひえ田野町佐伯垣内亦1


※駐在所の北です


いつも応援いただきありがとうございます。
牡丹の花びらの一枚一枚まで丁寧に彫られた見事な狛犬さん。子狛を囲む大きな狛犬さん達を見ているだけで、とてもほっこり。加工しやすい石材は、崩れやすい石材でもあり。こんなにきれいに花びらが残るのは奇跡に近いかと。これからも長生きしてほしい狛犬さんです。

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丹波国守大神朝臣狛磨造営の稗田野神社の、狛ちゃん

こんにちは。


京都府亀岡市の薭田野(ひえだの)神社。

※ひえ、は、くさかんむりに、稗



【由緒】

式内社。

「約3000年程前にこの地に住み着いた祖先の人達が現在の社殿の裏にある土盛りの処で、食物の神、野山の神を祭り、原生林を切り拓き田畑を造り、収穫した穀物を供え作物の豊作と子孫の繁栄を祈り捧げました。」


本殿奥の土盛り。

「それから時が流れ、大和朝廷の基礎が出来上がった和銅2年(709)、丹波国守大神朝臣狛磨が朝廷の指示によって土盛の前に社殿を造営。」(京都府神社庁HPより)

・・・こままろ?


こまちゃん造営のお社かー♪


モノクロ親子。


ちび狛ちゃん、それ、ボールちゃう。


どうだろう。


すみません。


ちび狛、おとなだねぇ。


手水舎に、いっぱいの折り鶴。


悪病退散を、「悪霊退散」と読み間違える。


お砂を袋に入れて玄関口に祀るそうな。

そろそろ健康面が気になるお年頃。ほほ。


柱に比べて屋根が重そう。



【祭神】(京都府神社庁HPより)

保食命 (うけもちのみこと) 
穀物の起源神であり五穀豊穣、食を司る女神。
伊勢の神宮・外宮に祀られる豊受大御神と異名同神。

大山祇命(おおやまずみのみこと)
山の守護神、延命長寿、美人の守護神。 

野椎命 (のづちのみこと) 
野の神様、田畑の作物の守り神。


通れるわよっ。


鎌倉時代のもの。


さん、たくさん。


こちらの方が一目瞭然。


んんん?


誰かがのぞいています。


こまちゃーーーーん!!

そう、ここにはあの子がいるの。

つづく。


稗田野神社
《住所》京都府亀岡市ひえ田野町佐伯垣内亦1


※駐在所の北です


いつも応援いただきありがとうございます。
亀岡市から丹波篠山、姫路へ続く国道372号(デカンショ街道)から酒蔵さんの横を入ります。こままろ造営の稗田野神社。ふっふっふ。狛犬さんがせっせとお社を造ったかと妄想してしまいます。ちび狛ちゃんがいるだけでテンション上がりっぱなし。ぼたんとちび狛。次回へつづく。

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福知山藩主の能舞台は創意工夫。福知山市一宮神社

こんにちは。


福知山市の一宮(いっきゅう)神社。


丹波・丹後の国境の守護神として崇敬され、天正年間、福智山城が築城されると、城中・城下の鎮守神として崇敬を集め、城主によって社殿の修復がなされ、宝物、神饌田等の奉献もありました。(境内説明板より)


まぁー、大きなおくち。


うふふ、かわいい♪

ここの目的はこちら。


境内の能舞台。

うふふふ。



安政4年(1857)、城南の小丘(現在の東岡町)にあった朝暉神社境内に藩の普請方によって建立された舞台。

明治7年(1874)に一宮神社に払い下げられ、翌年に現在地へ移築。


シテやワキが登場する道、「橋掛り」。


「土蜘蛛」では、土蜘蛛と独武者の攻防がここでも繰り広げられます。


橋掛りの奥には「鏡の間」があり、シテは自分の姿を鏡に映して集中。

通常は鏡の間と橋掛りの間は、五色の幕。

シテの「おまく(幕)」の声により、後見及び幕の担当が幕を上げます。

「おまくっ」と短く言われたら、ぱっと上げて
「おまぁく」とゆっくり言われたら、ゆっくり静かに。
幕の上がる速さで何が現れるのか、シテの位がわかります。



面白いのは、屋根の形。

上が水平。橋掛り部分の屋根の勾配により、遠近感が増すように工夫がされています。


舞台から見た橋掛り。


能の面は、視界が極端に遮られています。

いわゆる「摺り足」なのは、足の裏の感覚で舞台と橋掛り等との境目を感じとるためと言われます。

この「摺り足」ですが。

完全に着地させてずりずりしているのではなく、体重は動いてない方の足にかけており、浮かした足と板の間には、紙一枚が入る程度の隙間はあります。
でないと、長袴の時に動くことは出来ません。

それでも板目の境は、囃子方の頭と雰囲気と併せてはっきりわかります。

なので、


この木目の継ぎ目、大事です。


舞壺は、一枚板が同じ方向に。

ここへ入ればあとは柱の位置でわかります。


天井も、丁寧に作られています。


切戸は地謡や後見が出入りする場所。

油断すると頭をごっちんこ。


しかし、この舞台には地謡が座る場所がありません。


通常の能舞台。赤い装束の人の後ろに地謡がいます。


種明かしは、これ。


平時はコンパクト。


立派な舞台でした。


能舞台は飾り物ではなく、使われてこそ生きるもの。

あちこちの神社に残る能舞台でも演能されていればいいのですが、多額の費用がかかることもあり、なかなか難しいようです。

しょぼん。


いつも応援いただきありがとうございます。能楽は武家の式楽であったので、福知山藩の普請方がこの舞台を造った事は、藩主の意向によるものでしょうね。とてもしっかりとした構造の舞台だと思います。往時はこの舞台で様々な演能があったのだろうな~としんみり。神様へのご挨拶も早々に、お社そっちのけで舞台をながめ、這いつくばって舞台下を覗き込んで、ぐふふふふっ。でも、でも、自分では不審者ではないつもり~(T_T)。
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杵の調査報告。ぺったん。

こんにちは。


綾部市の安国寺で紅葉と


十月桜を堪能した後、

向かったのは、綾部市資料館。


安国寺と同じ上杉町に鎮座する八坂神社。

(訂正)初めから八坂神社として祀られていたそうです。


本殿のこの、杵のようなもの。

丹波地域の他のお社にも類似のものがあるかと地味に探してたのですが、どーにもわからず。

この八坂神社独自の由来があるとしか考えられなくて。

こんな時は、専門家に聞いてみよー♪

ってことで。駆け込み寺の綾部市資料館へ。
館長さんが、とても優しい方なので甘えてみましたー。


これ、なんですかー?

本殿は、嘉永2年(1849年)の造営。
大工は、綾部市の大石村の四方平八。

地元の大工さんが建てた社殿でした。


館長さん「面白いですねー♪」


つねまる「ねー♪・・・で?」


宿題になりました。

建築年代と大工名、由緒等については判明しているので調査は行ったそうですが、杵については記載なし。

中井権次一統のような彫刻の専門家の作品というよりは、大工さんの遊び心のような印象ですが、他に類似のものがあるかどうか不明。

杵のあるのは、サケ退治伝説が残る上野町の杵ノ宮神社なのですが、八坂神社は無関係。

八坂神社に独自の由来があるか、知っている人がいればいいのですが。


八坂神社の境内。

文化財や歴史的に重要なものの調査が優先されるため、こつこつと拾い上げていく作業というものが中々難しいとか。

例えば。

中井権次一統の作品についても、氷上郡の地元研究家が調べているので判明してきたこと。

鳥取県の狛犬さんネットワークは、調べる人がいるから、出来たこと。

そうかー。

また面白いもの見つけたら、これなんですかー?って聞きにいこう(違)。
頭はからっぽですが、足なら動くぞ。



それから、名もわからぬ神社だったこちら。

施福寺の山の麓に鎮座していることと、施福寺婦人会奉納の燈籠があったことを伝えて調べていただき、こちらは解決。


名前は、武大神社。

天王宮とも呼ばれた神社でしたが。

明治40年。上記の八坂神社に合祀した経緯がありました。

合祀後、再び現地へ戻したので、社殿の建築は昭和11年。
この時、施福寺婦人会が奉納したのが、燈籠であろうと。


見たのは、社殿前の石がある付近に狛犬さんがいる写真でしたの。

狛犬さんはどこへ。

石工は、沢山庄三郎。


境内近隣に古墳あり。

出土品があり、とありますが、その行方は不明。

あらー。

なんか、変にもこもこしてるなーと思ったら、古墳とな。


上野町八坂神社の狛犬さん。ぶひ。

狛犬。石や木製、等様々な子がいます。

が。

例えば木製の神殿狛犬さん。

仏師が片手間に彫ったので、あまり名前を出したくなかった側面があり、無銘のものも多いとか。

・・・ちっ。

いい顔も姿もしてるじゃないのよ。

神様を守護する狛犬さんなのよ。すごいじゃない。それじゃだめ?

だめか。


わたしなりに、じゅうじつした一日なのでした。


わからないことは、地元の専門家に質問するのが一番ですね。

綾部市資料館様、ご多忙の中、ありがとうございました。



上野町の八坂神社と謎だった神社

上杉氏本貫地の綾部市上杉町。八坂神社の狛犬さん
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-394.html

四道将軍丹波道主命の玖賀耳討伐。毒を治癒の八坂神社
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-395.html

情報求む。なぜ杵が本殿を飾るの?綾部市の八坂神社
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-396.html

火事が続出。さあ皆で秋葉神社の万年講。八坂神社
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-397.html

株荒神。株ってなんなの?おいしいの?
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-398.html


いつも応援いただきありがとうございます。八坂神社のあれがこれが、っと尋ねる時にタブレットに移した画像で話せばいいのに、ブログ画面で話してしまい。資料館様の「楽しそうですね♪」って笑顔が、どえらく眩しかったです。きゃー。楽しんで書いてるけど、きゃー。あっひょいっと踊り出しそうなほど、照れてしまったのでした。きゃー。
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紅葉探して安国寺。伝・足利尊氏生誕の地

こんにちは。


・・・あれ?


関西では、春が来ました。か?


訳がわからないことこの上ない。


もう、やだ・・・((T_T))

あちこちのブログ様で紅葉を拝見したので、
山の方ではそろそろかな?っと、北上しました。


大阪府北部は、桜は赤いけどまだまだ。


久しぶりに名月峠。


真ん中が名月姫。左右は父と夫。

鎌倉末期の宝篋印塔。

名月姫については、こちら↓↓
名月峠の名月姫。およしになって、清盛様
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-377.html?sp

ものはついでに、さらに北上して綾部市の上杉町へ。

上杉町は、建長4(1252)年より上杉氏の所領となった上杉荘。


紅葉の名所、景徳山安国寺。

元は光福寺と称し、南北朝時代より以前から上杉氏の氏寺でした。

初見は建武元年(1334)年の書状。from 上杉朝定 to 光福寺。

上杉朝定は、始祖重房の曾孫で上杉氏嫡流。
叔母の清子は足利貞氏に嫁して、尊氏・直義を生みます。

つまり、足利尊氏の従兄弟。

朝定からのお手紙は、

「其後久不啓案内候」(その後久しく案内を啓せず候)に始まる、
八田郷内能登房跡を光福寺に寄進する旨を記したもの(「安国寺文書」)

書き出しから光福寺と上杉氏の「両者が親しい間柄であったことが読み取れ」(『綾部市史』p167)ます。

さて。

尊氏の生誕地は鎌倉説、足利荘(栃木県足利市)説と、丹波上杉荘説がありますが。

伝承によれば、安国寺の境外塔頭となった常光寺(廃寺)が元は上杉氏の別邸。

尊氏の母・清子は、安国寺(当時は光福寺)の地蔵菩薩に安産を祈願し、別邸で尊氏を生んだと伝わります。


それがこちら。

今は公民館が建ちます。


敷地の片隅には、伝・尊氏の産湯の井戸。

安国寺は

「尊氏は征夷大将軍となった後、暦応元年(1338年)夢窓疎石のすすめにより後醍醐天皇、元弘以来の戦死者の霊を慰め、国家の安泰を祈願するため、国ごとに安国寺・利生塔を建てさせたが、丹波の安国寺には、母・清子の上杉氏が帰依する光福寺を充て、諸国安国寺の筆頭においた。」(『綾部市史』p170)

のですが。

安国寺、というとやはり。


安国寺。江戸時代の鐘。


好き好き好き好きすきっすきぃ~♪

ですな。どうしても。


新右衛門さんが飛び込んできそうな感じ。

違いますからね、ね。


安国寺ですから。安い、じゃない。


違うから。

足利ツウのあなた、家紋、見つけまして?


ここまで徹底している瓦は、スガスガシイです。

あ、これ、山門。


緑のもみじ。


安国寺仏殿。

寛保3(1743)年建立の禅宗仏殿。
裏山の土砂崩れにより往時の建物は崩壊したため、境内の建物は近世。


山門の瓦に同じものがありましたのよ。探してみよう♪


紅葉を探してうろちょろ。


開山堂周りがきれいでした。


紅葉を入れようと苦心惨憺したのに、葉っぱがべろーんって(T_T)

開山堂横に。


(向かって左から)伝・上杉清子、足利尊氏、赤橋登子の墓碑塔。

3基とも無銘の宝篋印塔。
全体の形、笠の隅飾突起等に南北朝時代の特色があり、
安国寺の歴史を物語るものとして貴重。(『あやべ歴史のみち』p047)

『安国寺文書』には、2代将軍足利義詮が、
尊氏及び夫人登子の遺骨を安国寺に納めた御教書があることから、
この3基の宝篋印塔が三人の墓碑塔との伝承になったのかな。


紅葉に埋もれています。


くまが愛でているのは、十月桜。


桜と紅葉。


安国寺お散歩、よかったー、です。


参考文献

「綾部市史・上巻」(綾部市史編纂委員会・編/綾部市役所・発行/1976年)

「あやべ歴史のみち」(綾部市資料館・編、発行/2000年)


いつも応援いただきありがとうございます。上杉荘と上杉氏、足利氏については頭痛の種ですので、今日は紅葉のお散歩記事でごめんあそばせ。関東へ行かれると途端に訳がわからなくなりますの。尊氏なんて、動き過ぎよー。さて、紅葉。やはり関西の見頃は今月中旬以降なのかなー。山もまだブロッコリーでした。紅葉の名所はこれからぎゅーぎゅーに混むんだろうな。駅の改札口を出る前にびっくりして引き返したこと、あります。牛歩戦術したくないのに、進めないんですもの。
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舞鶴港。母は待つ、引き揚げ船のお話。

こんにちは。

終戦の日にあたり、舞鶴引き揚げ港の話を再掲。



舞鶴港。大戦中は海軍の軍事拠点として重要な場所でした。
日露戦争時の艦船は全て舞鶴港から出港。

しかし、第二次大戦後の舞鶴港は全く違う役目を負います。



昭和20年(1945年) 第二次世界大戦が終結。

旧満州(現・中国東北)や朝鮮半島をはじめ南太平洋など多くの国や地域に約660万人もの日本人が残されたまま。



これらの方々を速やかに、しかも一斉に日本へ帰国させなければなりません。
「引き揚げ」事業の開始です。



昭和20年9月、舞鶴・浦賀・呉 など全国で10港が引揚港に指定され、帰国者の受け入れを開始しました。



舞鶴は主に旧満州や朝鮮半島、シベリアからの引揚者・復員兵を迎え入れる港となります。



昭和20年(1945年)10月7日に最初の引揚船「雲仙丸」が入港。



その後順次他の港が指定港の役目を終える中、唯一、舞鶴港は最後まで引揚船の帰還を迎える役を担います。

最後の引揚船の入港は、昭和33年9月7日。「白山丸」。

13年間に渡り迎え入れた引揚者・復員兵の数は約66万人。




舞鶴市では引揚船が入港する度に、湾内の定期船を チャーターして、引揚船近くまで乗り入れ桟橋へ輸送(船が大きく着岸不可)。

引揚者の帰郷に際しては、沿道歓送、湯茶、ふかし芋の接待を行い、市民こぞって、引き揚げてきた人々を勇気づけました。


お若い方はこの歌をご存じでしょうか。

「母は来ました。今日も来た。この岸壁に今日も来た」

遥か彼方のシベリアから、息子は必ず帰ってくると待ち続けたお母さん。実在の人物をモデルとしたこの歌。

引揚船が入港する度に遠い自宅からはるばる通い続けた。
一緒に待っていた人々の姿がなくなっても、一人待ち続けた。


「届かぬ願いと知りながら」


「もしやもしやに もしやもしやに 引かされて」

息子の死亡通知書を受け取っても、「必ず帰ってくる」と亡くなるまで信じ続けたお母さん。


ナホトカは遠い。


この記憶を残し伝えるため、舞鶴引揚記念館が作られました。

パネル展示だけではなく、シベリア抑留時の記録(全て没収されたが奇跡的に残った)、実際に使っていた道具、薄っぺらい防寒具等の品々が豊富に展示されています。

※現在改装工事中


敷地内には各部隊や遺族会の記念植樹が多数あります。

最後に、引揚記念館の碑文を。

(クリックで別窓拡大します)



この記事をアップした当時に「この話は嘘だ」とのご意見があり、それについてお返事しました。
再掲にあたり、続きを読む、に掲載しています。


他の方はどうか知りませんが、今日は戦争を云々とか、政権がどうだとかを論議したくはありません。名古屋空襲や沖縄戦で他界した者も身内におりますし、家を必死に守った祖母と母のことを偲びたく存じます。
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さて。今日は、母の誕生日。

まったくもう。祝ってもらおー♪って帰ってくるみたい。

終戦の日でお盆で、しーんっとなっている日に「おめでとう」。
毎年、父のビール、わんこのおやつ、母のケーキが並びます。
お線香とろうそくと、かわいいキャンドル。もぉー。


そして、母の命日は元旦。まったく困った親でございます。

続きを読む»

元伊勢外宮・豊受神社参道沿いの二宮神社。狛アシカ?

こんにちは。

狛犬さんに会いたい気分ですので、こまちゃん記事です。


公園の傍らに神社。

もしくは、神社の境内に公園。ブランコひとつ。

どことなく、のすたるじぃ~。

二宮神社です。


こんにちはー。

ここは福知山市内から大江山へ向かう途中。


二宮神社前は、こうなっていて。


元伊勢外宮・豊受神社の参道沿いになるのかな。


豊受神社から見ると、ここ。


豊受神社は、まさに「清々しい」お社でしたの。

でも、狛犬さん不在。とっても寂しかったので、ふらふらとこちらのお社へ参りました。


気温36度だにょー。


何するぅ?うふふー。


図工と自由研究を残して完璧です。

あー、かわいい。よーしよしよしよし。


ちびちゃんず?


おや。


ちっちゃー。

まあ、なんてかわいい、こま・・・


こまアシカ?


こまアザラシ?


こまちびちゃん。


あらやだ。空っぽ。


怪しい。後ろに隠したものは何。


男の子かしら。


誰だ、絶妙なところに置いたのは。


すみませんすみません。


小振りですが、なんとなく爽やかなお社。


まっさらな榊。地元の方に大切にされています。


じいー。


はい、ちょっとごめんあそばせ。


こぶこぶの木。


ほんとにねぇ。



いつも応援いただきありがとうございます。なぜか猛暑におでかけしてしまう悪い癖。暑い中も神様を護る狛犬さんは、ほんとにいじらしいですねぇ。かわいい狛犬さん達に会えて幸せでした。昨夜は結構な雨が降ったので、これで少しは空気が変わるといいのですが。
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観世流の名家「梅若家」旧跡。京都府南丹市。

こんにちは。

今日は、能のおうちのお話。



観世流の名家に、梅若家、というおうちがあります。


京都府南丹市日吉町殿田の曹源寺。丹波猿楽の梅若家の旧菩提寺。


梅若家は織田信長や徳川家康に仕えた日吉の領主であり、また、日吉を本拠に丹波猿楽の梅若座を構え、観世流に合流して観世流梅若家となった能楽の名家です。


当代の梅若玄祥先生は、今、絶対に舞台を見てほしい素晴らしい先生です。

その梅若家の旧跡のある南丹市を訪ねました。



橘諸兄の子孫の梅若家ですが、当初は山城国梅津村(京都市右京区梅津)にあり、10世「従五位下梅津兵庫頭友時」より梅津氏を名乗りました。

「梅若」の名乗りは後の事。


目の前の殿田川に架かる橋には、能のレリーフ。

若い女性の姿ですが、装束を片方脱いでいるのは「狂女」を表します。
流れる水を指しているので、能「蝉丸」の、蝉丸の姉の逆髪(さかがみ)かな?


見た通りの、じいさま。

漁翁の姿です。この髪型が、尉髪。


毎回、せっせと結うのです。


梅若家37世(梅津友時より数えて28世)の「梅若太夫波多景久」が、16歳の折に「芦刈」を御土御門天皇の御前で奉じた折に「若齢にしてその技に通ず」と右少弁藤原俊名を介し「若」の字を賜り、一門も梅津から「梅若」に改姓。



「梅若」の姓となった頃は、既に丹波国大志麻(綾部市大志麻)に本拠を移し、綾部から和知・周山・美山・殿田など丹波地域に一門が広く居住していた梅津(梅若)家。

丹波猿楽「梅若」座となった後。

上林(現在の美山町宮脇)に居住していた広長(「若」を賜った景久の子か孫かは不明)は美声で「妙音大夫」と呼ばれていました。

彼が信長より500石を与えられた土地「世木庄」が、現在、曹源寺がある場所。


ところで。中世丹波地域は、言わずと知れた山城密集地域。


曹源寺の背後の山には殿田城があります。屋根が見えるのが曹源寺。


安土で家康を饗応した際の能楽お披露目では、梅若家は共に舞台に立った幸若大夫と比べて不出来である!っと叱られました(『信長公記』)。

とにかく、舞い謡いしてるばかりでは立ち行かぬのが戦国時代。

本能寺の変。


(高野山奥の院。豊臣家墓所)


(高野山奥の院。明智光秀墓所)

梅若家の家久(もしくは広長)は、丹波攻略によりこの地域を手中に治めた光秀方に付いて山崎の合戦を戦いますが、負傷し、ご他界。
亡骸は曹源寺に葬られます。

光秀が秀吉に敗れた後、光秀に付いたため、梅若家は一時没落。


梅若九郎右衛門氏盛(隠居後に玄祥。梅若家40世)が細川幽斎の推挙によって徳川家康に仕え、世木庄の上稗生(現在の日吉町生畑上稗生)に百石を賜り、梅若中興の祖となりました。


(舞鶴市田辺城のゆうさいくん)

そんな激動の中世を生きた梅若家。


(曹源寺から見た梅若家屋敷跡方面)

今も南丹市日吉町殿田には屋敷跡と墓所が残ります。



この上に


「丹波猿楽梅若家屋敷跡」の旧墓所。

梅若九郎右衛門氏盛(隠居後に玄祥。梅若家40世)以後、梅若家は代々上稗生を領していましたが、維新後は東京に移住しました。



明治20年、梅若実(55世梅若六郎)が、梅若の始祖「梅津兵庫頭友時」の千年祭を行ない、梅若屋敷跡の旧墓所に「従五位下梅津兵庫頭橘友時碑」を建立。



昭和50年10月には「丹波猿楽梅若家旧墓所」の碑を55世梅若六郎が建立しています。



とにかく舞台が素晴らしい梅若玄祥先生ですが、とても面白い方で、
漫画「ガラスの仮面」の劇中劇『紅天女』を能にしたり、様々な舞台に挑戦しておいでです。


テレビであれ、公演であれ、どんな形でもいいので、ぜひ一度。



いつも応援いただきありがとうございます。自慢ひとつ。学生時代に、能楽堂の虫干しのお手伝いをしていたら、梅若玄祥先生がケーキを差し入れてくれましたの~(≧∇≦)ウハウハ♪優しい先生なのですー。
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