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大阪北部を震源とした地震。地元より

こんにちは。いつもありがとうございます。

昨日の朝、大阪北部を震源とした地震がありました。

ガタガタ→ビシビシ→ガタガタゆさゆさガタガター!!

瞬時に停電し、緊急地震速報がウワンウワン鳴り、防災無線は「大地震です!」と叫びだし。

叫びだしたのに、「身の安全を確保してください。身のあんぜ(ぶちっ)」と、途中で切れてしまって、おいおいおいー!?ってなおさら恐怖。

ベッドの上で縮こまるしかなかったです。

震度5強は、とっても怖かったです。

ちびりました。

えーん、こわいよー、やめてー、と言ってもどんどん強くなる揺れ。

自然って情け容赦ないと、思い知りました。

近隣は一帯で停電。信号機が停電のため黒かったです。

電車は夜遅くまで復旧せず、高速道路は夕方まで通行止め、一般道路はびたびたに渋滞。

ガスは揺れを感知すると自動的に停止させるやつが作動して止まりました(数時間後にマニュアル通りに復旧)。

ヘリと自衛隊機が頻繁に飛び交い、緊急車両が走り回り、騒々しい。
なのに、電車が止まってる、信号機の停電で車は徐行、のため、普段聞こえる音が聞こえない不気味さ。

交通網の麻痺と、近隣の状況からとても出勤できる状態でなく、まだ自宅だったので、お仕事は自宅待機になりました。

勤務先の面々と連絡を取り合う中で感じたのは、同じ大阪府下でも、地域差が非常に大きく、こちらの危機感が伝わらなかったこと。

今回の震源は大阪府北部。被害は北大阪、特に、茨木市、高槻市、枚方市(淀川以北及び南岸で、新御堂筋より以東及び京都と大阪の間)が中心のため、勤務先の大阪市中央区や南部大阪とは、震度は似ていても被害の有無に差がありました。

例えば、関西空港は平常通りでも、伊丹空港は要点検で一時閉鎖。

夜は、0時過ぎと4時過ぎからの連続の余震が、怖かったです。
うとうとして、ぎゃ!うとうとして、ぎゃ!の繰り返しでした。


今回、備蓄以外に改めて実行したこと。

① 懐中電灯は枕元に置くが、夜中にトイレ行くとき、持って歩く
② 積んでた本が崩れたので、本は箱詰め。本棚撤去
③ こまめに洗濯しておく(断水&停電に備え)
④ 深酒しない
⑤ lineは通じるが、電話とメールはつながらないので友だち大事
⑥ ガソリンは常に満タン(私の避難所)

現在は諸々復旧しましたが、余震がないことをひたすら祈ってます。



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顕本寺。堺公方滞在地と三好元長墓所

こんにちは。


堺市にあります、顕本寺。

もとは開口神社の近くにありましたが、慶長20年(1615)の大坂夏の陣の兵火により焼失。

再建された際に、現在の場所に移りました。

なぜここへ来たかといいますと~


堺幕府が置かれたのが、ここー。

うひひひ。


【堺幕府ってなんだー】

阿波公方を再び。


室町幕府第10代将軍・足利義稙が阿波撫養で没した後に

室町幕府第11代将軍義澄の子で義稙の養子であった足利義維(よしつな・後に義冬)(1507-1573)がその遺志を継ぎます。


京都の室町御所で第12代征夷大将軍となっていた実兄の足利義晴と対立。


三好元長及び弟の康長の武勇と器量は大きな支え。


大永7年(1527)2月。桂川原の戦い。
三好元長・細川晴元は、第12代将軍・義晴を擁する細川高国を打ち破り、将軍義晴は近江朽木谷へ逃亡。京都室町政権は瓦解。

同年3月。

細川持隆、三好元長に擁立され、義維(義冬)は阿波を出立。


大阪の堺へ入ります。

同年7月。

「従五位下左馬頭」に叙任。

これは、征夷大将軍になる者が事前に命じられる官職。

あとは朝廷からの勅使を迎え、征夷大将軍の宣下を待つのみ。



足利義維(義冬)の周りには、都を追われ鳴門の撫養で死去した第10代将軍・足利義稙に従ってきた幕府吏僚達がおり、奉行人奉書の発給を始めています。(wikipediaより)

しかし、朽木谷へ逃れたとはいえ、現職の将軍・義晴は存命。


かれこれ5年間、将軍宣下を待つ。

待ちぼうけした 政治の中心となった場所が、顕本寺。


【顕本寺と三好元長】


おおお、さすが南国(違)。


メタルな手水。


マンションが建ち並ぶ町中にある顕本寺。


おや?


これは茶道のお道具ではありませんか?


堺は周知の如く、千利休のいたところ。


とても立派な本堂。

常住山顕本寺は、法華宗本門流の寺院。

三好氏は、法華宗。


しび。


堺公方・足利義維(義冬)を支えた三好元長ですが。

幕僚同士の勢力争いは、絶えず。


ここで、三好氏の宗派、法華宗が関わります。

元長は、かつて本願寺門徒による和泉や山城の法華宗徒への圧迫の一件に対し、本願寺側を弾圧。

恨み骨髄。

元長派の守護畠山義堯と対立していた河内守護代・木沢長政の働きかけにより、畿内宗門の責任者・蓮淳は、法主である証如に出陣させ、畿内における『浄土真宗と法華宗の最終決戦』と位置づけることで全畿内の門徒を結集。

摂津・河内・和泉の一揆衆が蜂起。

『単なる武家の騒乱でありながら宗門が参戦』の事態。

同年6月15日(7月17日)、10万(一説には20万)と言われた本願寺門徒は、最終的に三好元長を追い詰めます。



凶報。

天文元年(1532)6月。後見人の三好元長が幕僚同士の勢力争いに敗れ、顕本寺で自害。


この時、お腹から中身を取り出して天井へ投げつけたとか。

頼みとしていた三好元長の死。


足利義維(義冬)、しょーっく。

三好一族と共に阿波へ帰国。


(阿南市の西光寺、阿波公方墓所)

将軍宣下の前フリである「従五位下左馬頭」となりながら、将軍になれなかった足利義維(義冬)は、阿波の地で生涯を終えました。

さて。自害した三好元長ですが。


ここ、顕本寺には元長の墓所があります。



尚、前述したように、顕本寺は元は開口神社の近くにありました。


開口神社のおっきな狛犬さんの


こちらの足元に


「三好元長戦死跡」の石碑が


ひっそり。

また、三好氏の本拠地・阿波の勝瑞城跡に建つ見性寺境内には。


三好一族(之長・元長・義賢・長治達)の墓所。

足利義維(義冬)が滞在し政治の中心となり、三好元長の墓所のある顕本寺でした。


顕本寺
《住所》大阪府堺市堺区宿院町東4―1―30


南東に仁徳天皇陵。百舌鳥古墳群のある堺市です。


参考文献

『三好長慶 諸人之を仰ぐこと北斗泰山』(天野忠幸・著/ミネルヴァ書房/2014)
『戦国三好氏と篠原長房』(若松和三郎・著/戎光祥出版/2013)
『三好一族と織田信長 「天下」を巡る覇権戦争』(天野忠幸・著/戎光祥出版/2016)

その他、適宜「wikipedia」を閲覧


いつも応援いただきありがとうございます。
堺は二度、激しく焼かれています。一度目は大阪夏の陣。二度目は先の大戦。それを踏まえた上で史跡巡り。三好元長の最期は強烈な印象ですが、彼の息子・長慶達の活躍は信長前に畿内を治めるに至る戦国時代。一番ややこしくて興味深い時代です。元長といえば、お腹の中身ぶんぶん。これを長慶達兄弟はどう思ったのかな。三好くんへの興味は尽きず、堺と阿波をうろちょろしてます。

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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

開口神社の関西最古と伝わる力石

こんにちは。


でっかい狛犬さんがお出迎え。


まんまるなちび狛ちゃん。


投げちゃだめー。


けなげなちっちゃい狛ちゃんもお出迎えするここは、


大阪府堺市の開口神社。

かいこう、ではなく、あぐちじんじゃ。


拝殿手前横に、あっ!


おおお。


どすこいっ。

ちからいしです。

おおおー、力石。やっと会えたよぉ~。

神社巡りのブログ様ではちょくちょく見かけてはいたのですが、
力石を力石と認識して面と向かったのは初めて。

いつもお世話になっている、専門的な力石の研究と民俗に詳しい力石に魅せられて 姫は今日も石探し様の記事で、力石にはいろいろな背景や悲喜こもごもがあり、全国津々浦々をフィールドワークされている専門の先生方がおいでと知り、とってもとっても会いたかったのよー。


【力石とは?】


「力石とは、力試し、力競べをするために使われた石のこと、およびその競技をさす言葉です。
昔の農村の青年は米俵を担ぐなど力仕事をすることが多く、力試しをよくしたと伝えられています。江戸時代中期から明治にかけて、 各地の神社やお寺の祭の際には、力自慢を競う競技が行われていました。」
(保利神社HP「力石について」より引用)
http://www.oct.zaq.ne.jp/hori-jinja/keidai/tikara/tikaraisi.htm

力石には、「力石」の他に、「鶴亀」「雲龍」といった縁起のいい名前や、持ち上げた人の名や重量を刻んだものなどがあるそうです。



丹後半島の浦嶋神社。




力石を知らない頃に訪問したので、画像が投げやり。


那智勝浦の補陀落山寺と熊野三所神社の間。

力石は二つだと説明板にあるけれど、みっつ並んでいるの。
リボンつけるとか、目印が欲しいところです。よよよ。

さて。


指先までかわいいちび狛ちゃんの開口神社に話を戻して。


「大判石」

抱っこは無理よー。

大判ってぐらいだから、重いクラスなのかな。


明治24年9月の銘


「力石」

上端部には奉納者の氏名が刻まれています。


「五十五貫目」「文政丁亥十一月吉日」(1827年)


五十五貫目とは、約200キロ。

持ち上げたのかなー、これ。
ちょびっとごつごつしているのが、気になります。

だって、こんなの失敗したら怪我しちゃうわ。

力石には、これを持ち上げた若い衆の涙や汗、喜びや悲しみが詰まっているから、撫でて愛でてあげてね、って力石に魅せられて 姫は今日も石探し様に教えていただいたので。

みんな、撫でた。

まぁるい石は、何となく触り心地がよろしい。

不思議な感じでした。


「長雲?(まだ下に文字がありそう)」

天保4年(1833)のこちら、関西最古の力石と言われているとか。(保利神社HP「力石について」より)

ってことは、「五十五貫目」くん(どすこいっの文字が重なっている石)は、記念の奉納石なのかなー。


すごいなー。すごいなー。

こんなのを持ち上げるんだなー。


でっかい狛ちゃん、それ、違うから。


いつも応援いただきありがとうございます。
開口神社のでっかい狛犬さんは有名人のようですが、今回はわき役。うふふふ。力石を持ち上げる大会は主に江戸時代から明治が盛んだったようですが、現在も行われているお社もあります。皆様の近所の神社にも力石があるかもしれませんよー。地面に転がっていたり、埋まっていたり、少しお気の毒な目にあっている力石くんも多いようですので、目をお皿にして、ぜひ。

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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

日本のお正月とカトリック教会の四苦八苦。宣教師、悩む

こんにちは。


イエスの誕生日が、クリスマス(降誕祭)。


クリスマス(降誕祭)当日の前後にはそれぞれ「待降節」と「降誕節」があります。

1月6日の「顕現日(節)」までは降誕節なので、


クリスマスツリーは、1月6日が過ぎてから片付けても、おけー。

ということは。


元旦は降誕節のど真ん中なので、特に何をするでもなかったのですが。

カトリック教会では。

1931年。エフェソス公会議1500周年に際し。
教皇ピウス11世が、1月1日を「神の母」の祝日と制定。

これは、第2バチカン公会議(1962~1965年)で追認されます。


「エフェソス公会議」(431年)。
聖母マリアを「神の母」と称することの正当性を決議。

「聖母マリアはキリストの母と言えるが神の母とは言えない」と主張するネストリウス派が異端認定された公会議。

この決議から1500年後に、1月1日を「神の母」の祝日と制定されたのです。

気の遠くなるお話。せんごひゃくねん。



また、1月1日は12月25日の降誕祭から8日目。

ユダヤ教の律法では、生後8日目に男子に儀礼を施し(※自主規制)命名します。
よって、1月1日はイエスの誕生日から8日目を祝す日でもあるのです。


【日本におけるカトリック教会と元旦】

時は1580年代。日本にキリスト教が伝わり数十年。
ちょこちょこと困った事が出てくるお年頃。



日本のお正月の祝い方は、宣教師達からすると「迷信・偶像崇拝的」。

これを禁じると日本のカトリック信者達は堂々とお正月のお祝いが出来ません。

しかし、これでは布教に支障が。

そこで教会は、日本の行事や祝祭日を積極的に取り入れようとします。



また、当時の日本は陰暦。
太陽暦を用いる西洋の教会から一ヶ月半ほど遅れます。

すると、復活祭の46日前の水曜日(灰の水曜日)から復活祭の前日(聖土曜日)までの期間の「四旬節」が、お正月と重なってしまう年が出てきてしまいます。

四旬節とは、イエスが十字架上で死亡し復活するまでの期間。
この間は食事の節制と祝宴の自粛が行われます。

そんな時に、日本では「おめでとう」な、お正月が重なってしまうのです。

まー、たいへん。

他にも松飾りや、しめ縄、篝火、鏡餅などをどう解釈したらいいのか。



1580年。宣教師達はお正月のお祝い事について『裁決』を記し、基本方針を示します。


①日本のお正月をまず大事にしましょう。

まず信者達に基本方針を示し、安心させます。


②1月1日を「御守りのサンタ・マリアの祝日」にしまーす。

西洋のカトリック教会では祝日がてんこ盛り。
そこで日本では、キリストの祝日を中心とした祝日のみに限定し、すっきりさせていました。

「迷信や不道徳なことをさけて」という条件付きながら、1月1日を祝日とすることで、四旬節の重苦しい雰囲気を一転。

信者達も堂々とお正月のお祝いが出来るようになりました。


③ミサには、「聖母マリアの誕生」の典礼(9月8日)を採用。

聖母マリアからキリストが生まれて救いが始まる。
なので、お正月はマリア様の誕生を祝う日とすることが一番良いという結論を出しています。


④お正月の3が日は、キリスト教上の行事よりもお正月を優先。

暦が日本と西洋でずれているため、お正月の三日間が四旬節の主日になったり、水曜日・金曜日の断食の日にぶつかる事があります。

そこで改めて、お正月の3が日は断食の義務がないと決定しています。




この決定は、信者の日本人には嬉しいこと。

積極的にしめ縄や鏡餅の意味を皆で話し合って、キリスト教と関連付けていきます。

初詣だって出来ます。
数珠の代わりにロザリオを持って。

絵馬やお札だって奉納出来ます。
聖書の絵や言葉を書きます。

親戚やお友達のおうちにだって、新年のご挨拶にお出掛け出来ます。
数珠の代わりにロザリオを持って。




【『神の母聖マリア』の祝日と日本】

日本では、1990年から『元旦のミサ』は「『神の母聖マリア』を祝うミサ」へと変わりました。

これは、

1931年。エフェソス公会議1500周年に際し、教皇ピウス11世が制定し、第2バチカン公会議(1962~1965年)で追認された、「1月1日は『神の母聖マリア』の祝日」の件と絡みます。

カトリック国ではない日本に対しては、この1月1日の『神の母聖マリア』の祝日は免除されており、単に『元旦ミサ』と呼ばれていました。

しかし、1989年にローマ福音宣教省が、この特例措置をなくす手紙を日本の教会に送付。

この書簡の中で、1580年に宣教師達が日本のお正月のお祝い事についての言及があります。

「セルケイラ司教様が来日した1598年当時、日本で宣教していた司祭たちは相談し、1月1日(元日)に『御守りサンタマリア』という祭日を行うことにした。」

日本では数百年前から、1月1日にミサが行われていた事をローマ福音宣教省でも把握していた事がわかります。


こうして日本では、1990年から元旦には「『神の母聖マリア』を祝うミサ」が行われるのでした。

数年前、久々に教会へ行ったら、名前が変わっていてびっくりしたもので、ちょっと調べてみました。

うらしまたろこ、な気分で。


おしまい。


参考資料

「カトリック高田教会」
https://takadacatholic.wordpress.com/page/12/

「カトリック高松教会」
「神の母マリア祝日ミサ説教/2011年1月1日/於:桜町教会」
http://www.takamatsu.catholic.ne.jp/bishopemeritus/homily/20110101homily.html

「カトリック中央協議会」
「典礼解説・四旬節」
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/tenrei/sijunsetsu.htm


いつも応援いただきありがとうございます。あれれ?お正月のお話になってしまったー。まぁ、クリスマスのお話の流れってことで。えへへ。今年もいよいよあと少し。あたふたと大掃除してます。ベランダはお布団とかマット、まな板と枕とザルが並んでおります。おほほほ。さぁて、さぁて、さ・・・どうしよう、このごみ置き場みたいなお部屋。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

聖書に定めがないクリスマスの日付。顕現節と降誕節と冬至

こんにちは。



カトリック教会では、クリスマス(降誕祭)の4つ前の日曜日から、クリスマスを準備する期間に入ります。

この期間を「待降節」と呼んでいます。


イエスの誕生日・クリスマス(降誕祭)当日の前後にはそれぞれ「待降節」と「降誕節」があります。

待降節は、読んで字のごとし。降誕を待つ期間。

クリスマス(降誕祭)の4つ前の日曜日(日本では11月30日間近の土曜の夜から)から始まる準備期間。


【クリスマス(降誕祭)の日付特定】



しかし、12月25日がイエスの誕生日とは、聖書には書かれておらず。

「パウロ六世ホールにおける教皇ベネディクト16世の206回目の一般謁見演説」より引用すると

「実際、教会の典礼暦年は、初めからキリストの誕生から出発したのではなく、キリストの復活への信仰から発展してきました。
そのため、キリスト教のもっとも古い祭日は、降誕祭ではなく復活祭です。キリストの復活こそがキリスト教信仰の基盤であり、これが福音の告知の土台となって、教会を生み出しました。

ですから、キリスト者であるとは、復活の姿に従って生き、新しいいのちにあずかることです。この新しいいのちは、洗礼から始まり、わたしたちが罪に死んで、神とともに生きることを可能にします(ローマ6・4参照)。」



カトリックで一番重要な祭日、復活祭。

周知の通り、イエスは十字架に架けられて死亡。
3日後、父なる神によって復活します。


この復活の日を祝うのが、復活祭。

「キリストの復活こそがキリスト教信仰の基盤」なので、お誕生日よりもまずこの日を祝った、と。


イースター・エッグ、見たことありませんか?(wikipediaより)


「イエスが12月25日に生まれたとはっきり述べた最初の人は、ローマのヒッポリュトス(Hippolytos 170以前-235年)です。
ヒッポリュトスは204年頃著された『ダニエル書注解』(Commentarii in Danielem)の中でそう書いています。」
(中略)

「 キリスト教の中で降誕祭が決定的な形をとったのは4世紀です。
この頃、降誕祭はローマの『不滅の太陽(Sol invictus)』の祭に取って代わったからです。こうしてキリストの誕生は、悪と罪の闇に対するまことの光の勝利であることがはっきりと表されました。」


(同上、教皇ベネディクト16世の206回目の一般謁見演説より)


古代ローマ暦では12月25日が冬至で、これを「太陽誕生の日」、『不滅の太陽(Sol invictus)』の祭として祝っていました。
そこで、教会はこの習慣に合わせて、この日をイエスの誕生日として祝うようになったとされます(有力説)。


【降誕節と顕現節】

イエスの誕生日を祝うクリスマス(降誕祭)の後の数日間はなんだ?



東方の三人の博士は、イエスの誕生時にはまだ「ベツレヘムの星」に導かれて旅の最中。



途中でヘロデ王に「ユダヤの王はどこでせう?」と聞くおっちょこちょいな三人組。
これを聞き、自分以外の王が生まれたのかとヘロデ王があせり、ベツレヘム中の2歳以下の男子が皆殺しになってしまいます。


彼等がたどり着くまで数日。


1月6日。やっと到着。



東方の三人の博士がベツレヘムのイエスに、乳香、沈薬、黄金を捧げたときをもって「イエスが公に現れ」たとされます。

つまり「主の公現」の日。

これを記念して1月6日を「顕現日(節)」(エピファニー)といいます。


救世主が現れ、世界に救いがもたらされたことを感謝する期間「降誕祭」(12月24日日没後)から「顕現日(節)」前日までが「降誕節」です。


なので正式にはクリスマスツリーは、1月6日の「顕現日(節)」が過ぎてから片付けるそうな。


ではなぜ、聖書に日付も明記されていない誕生日を祝うのか。

前述したように、「キリストの復活こそがキリスト教信仰の基盤」。

復活するには、まず生まれてこないといけません。

人々が待ち望んでいた真の救い主「キリスト」が、ついに我々の間に生まれたことを祝う感謝の祭が「クリスマス」。


お釈迦様の誕生日もお祝いするものね(暴走)。


では、クリスマスなので「きよしこの夜」でも歌いましょ。

はい♪


Silent night, holy night!

「きよしこの夜」

All is calm, all is bright

「星はひかり」

ユダヤの王が生まれるのよ、とのお告げを受けた東方の三人の博士をベツレヘムのイエスのもとまで導く星。

Round yon Virgin, Mother and Child

「救いの御子は」

Holy infant so tender and mild

「御母の胸に」

Sleep in heavenly peace

「眠り給う」

Sleep in heavenly peace

「夢安く」

Silent night, holy night!

「きよしこの夜」

Shepherds quake at the sight

「御告げ受けし」

Glories stream from heaven afar

「牧人たちは」

イエスの降誕を天使が羊飼いにお知らせ(ルカによる福音書)。
羊飼い(イエスや聖職者)は羊(信徒)を導くもの。

Heavenly hosts sing Alleluia

「御子の御前に」

Christ the Savior is born!

「ぬかづきぬ」

Christ the Savior is born

「かしこみて」


小難しいことはさておき。


めりぃくりすますぅ~(*^▽^)/★*☆♪


参考文献

「2009.12.23/パウロ六世ホール/教皇ベネディクト16世の206回目の一般謁見演説」
(カトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画訳/2009.12.24)

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message469.htm


いつも応援いただきありがとうございます。今年はえらく生ぬるい気温のクリスマスイブになりました。ダウンが暑かったです。これからはこんな気温が普通になっていくのかなぁ。クリスマスの日付の特定については諸説あるようですが、教皇ベネディクト16世の言葉を引用して、有力説とされる冬至起源をご紹介しました。冬至が太陽が誕生する日と見るなんて、面白いです。さぁて、今日こそは美味しいケーキを食べるぞぉー!
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

イエス降誕物語と日本最初のクリスマスミサ。はじめて物語

こんにちは。

今日はクリスマスイブ。


めりぃもあと一週間。一年はやいなぁ。


クリスマスとは、イエス・キリストの降誕祭。
いわば全世界規模のお誕生日会。



イエスが固有名詞、キリストは「救い主」。
よって、「イエス・キリスト」で「救い主イエス」。


【イエス・キリスト降誕物語】

イエスの降誕は新訳聖書の『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』のみに記述がありますが、「12月25日」とは記されておりません。

古くからの冬至祭の日を誕生日としたというのが有力説。

母はヨゼフの婚約者マリア。
生まれた場所は、ユダヤの町、ベツレヘム。

処女のまま懐妊したマリア。

ヨゼフ、パニック・・・には、ならず。

そこはちゃんと天使ガブリエルが事前に告知しています。


様々な洋画家が描く「受胎告知」はこの場面。
処女マリアは、♂によらず、聖霊により身籠ったのです。

「マリアとヨゼフの子であるイエスは神から遣わされた救い主、キリスト」ということで。


生まれた子、イエスは飼い葉桶に寝かされます。(正確にはこの時、馬は不在)

これは、ヨゼフとマリアが旅の途中で、宿が満室だったので家畜小屋に宿泊していたため。


イエスの降誕を天使が羊飼いにお知らせ(『ルカによる福音書』)。

イエスは自分を「私は善き羊飼いである」と語っています。
羊飼い(イエスや聖職者)は羊(信徒)を導くもの。



よって、羊飼いの持つ杖は、困難な状況にある信徒を助けるシンボルとして、司教様が持つ司教杖に取り入れられています。



東方の三人の博士は、ぺかーっと輝く星により「ユダヤの王が生まれた」と知り、星に導かれて旅をします(『マタイによる福音書』)。

途中でユダヤのヘロデ王に「ユダヤ人達の王はどこで生まれたの?」と尋ねます。

ヘロデ王にしてみれば、「俺以外の王って誰や!?」

王は三人の博士に、その居所が判明次第教えるよう指示。

そんな事があった後も、博士達は星に向かっててくてくてく。

ようやく立ち止まった星。

その真下が、イエスの居場所。

東方の三博士は、イエスに「乳香(にゅうこう)、没薬(もつやく)、黄金」を贈り物として捧げます。

そして、ヘロデ王には夢のお告げにより、何も知らせず帰国。

後になってヘロデ王は自分の王座を脅かす者を探し出すためベツレヘム周囲の2歳以下の男子を皆殺しに。ひゃー。

ヨゼフ達は天使のお告げにより事前にエジプトへ脱出しており、助かったのでした。


クリスマスツリーのてっぺんの星が、東方の三人の博士を導いた星。「ベツレヘムの星」といいます。

ツリーの飾りつけは自由に楽しんでも、てっぺんの星は忘れないでね。

東方の三博士がイエスに捧げた「乳香(にゅうこう)、没薬(もつやく)、黄金」。

乳香は、神に捧げるお香。
イエスの時代の前、紀元前のエジプトの墳墓からも埋葬品として出土。

没薬は、お香の他に、殺菌作用があるため鎮静薬、鎮痛薬としても使用。
ミイラ作成時には遺体の防腐処理のために使用されています。
聖書では聖なる所を清めるために使用するなど、頻出。

黄金は、ゴールド。

以上の登場人物達を人形で表現したものが、クリスマスの時期にはカトリック教会等で飾られています。


(wikipediaより)

中央にヨゼフとマリア、飼葉桶の中のイエス。
三人の博士with乳香・没薬・黄金や、羊飼いの姿、天使。




【日本最初のクリスマスミサ】

日本の最初のクリスマスは、天文21年(1552)。

周防国山口で、カトリックのイエズス会司祭コスメ・デ・トーレス等が、日本人信徒を招いて行った降誕祭のミサ。


フロイス著『日本史』第一部八章に記述が残ります。

「山口において(日本で)初めて降誕祭の祝いが催されたが、その報せに接したキリシタンたちは、これを大いに喜んだ」


『弥蘇会士日本通信』「天文23年(1554)イルマン・ペロ・ダルカセバがゴアよりポルトガルの耶蘇会のイルマン等に贈りし書翰」には、

「1552年の降誕祭の日に弥撤(ミサ)を歌い、良い声ではないけれどキリシタンの人たちはこれを聞いておおいに喜んだ。その日は一晩じゅう基督一代記を語り、6回弥撤を行い、これを行う理由を説明した。」
(弥蘇会士日本通信/『山口県史史料編中世1』山口県/1996)


この時のミサの歌が、「日本で披露されたヨーロッパの声楽としては最古のもの」といわれるそうです。
(『クリスマス』 クラウス・クラハト、克美・タテノ=クラハト著/角川書店/1999)

・・・「良い声ではないけれど」が余分だわ。お気の毒に。



また翌1553年の降誕祭では「聖書史話(聖書のなかの物語)」が朗読され、「日本におけるキリシタンの演劇活動は、この聖書史話を交誦したときにはじまるといわれる」とか。(同上)


この時は「聖書史話」の朗読だったようですが、クリスマスにイエスの降誕のお話を短い劇に仕立てて上演するのは、今でも教会の日曜学校等で行われています。

幼稚園の頃は、お兄さんお姉さんが演じてくれる劇が楽しかったです。


さて、山口で降誕祭のミサを司ったコスメ・デ・トーレス。
フランシスコ・ザビエルと共に天文18年(1549)日本へやって来ました。

2年後、山口の守護大名の大内義隆から布教の許可を得ており、このミサの時期はまさに布教の最中。

ザビエル等が山口へ来る前に滞在した鹿児島や平戸でも、重要な「降誕祭のミサ」は行われたはずですが、あいにくと裏付ける記録がなく。

神のみぞ知る。

コスメ・デ・トーレスはザビエルの離日後も日本に残り、ザビエルと同じように日本文化を尊重(「適応主義」)し、畿内・山口・豊後・肥前などを転々としつつ布教。

1570年、天草志岐(熊本県天草郡)で死去。


《キリスト教禁止令下の降誕祭と解禁》

慶長17年(1612)キリスト教禁止令。

公にはクリスマスのミサは行われませんでしたが、鎖国中も降誕祭のミサに相当するものは存在。

①長崎の浦上などで隠れキリシタンによるクリスマス・ミサ「御メーサン」。
 
②長崎の出島において、オランダ人が祝った「オランダ正月」。


次に日本において、公に「クリスマス」の名前が現れるのは、万延元年(1860)、芝赤羽のプロイセン王国行使邸宅でのクリスマスパーティーの開催。

これは、パーティーなのでちょっと違うかな。


明治6年(1873)。キリシタン放還令公布。

これにより、禁じられていた「クリスマス」が解禁となりました。



(カトリック高槻教会の高山右近像。じゅてーむ風)


普段からの信徒でなくても、教会は誰でもウエルカム。
静かにミサに参加するのもいいものですよー。


※一部、過去記事を利用しました。


参考文献

『日本史 6』 ルイス・フロイス著(松田毅一訳/中央公論社 1)

『弥蘇会士日本通信』/『山口県史史料編中世1』(山口県/1996)より
※原著は『弥蘇会士日本通信 上』( 村上直次郎訳・柳谷武夫編/雄松堂/1968)

『クリスマス』 クラウス・クラハト/克美・タテノ=クラハト著/角川書店/1999


いつも応援いただきありがとうございます。ミサに参加すると、皆様とてもきれいなお声で聖歌を歌うので、自分もお歌が上手になった錯覚がして気持ちいいです。特に信仰があるわけではありませんが、たまーに気が向いたら参加。神社で狛犬ちゃんと戯れ、お寺で仏様に感動し、教会でお歌をうたう。支離滅裂ですがそれぞれが個々に楽しいのでいいんです。へへへ。
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名月峠の名月姫。およしになって、清盛様

こんにちは。

大阪から丹波篠山へ向かうルートの途中。
能勢町から国道173号線へ向かう道中に名月峠があります。

ここ、なんか好きなんです。車道の上に伝説の足跡。



「摂津御園荘浜村(現、尼崎市)の三松刑部尉国春が大日如来様に願掛けして、とても美しい名月姫を授かり、姫はやがて能勢家包(いえかね)の妻となり幸せに過ごしておりました。

ところが、平清盛に見初められてしまい。

人妻なのに。

権力には逆らえず、清盛のいる福原(現、神戸市)に向かう途中、名月姫は夫への貞節を守り、この峠で自害。

姫の亡骸は峠に葬られ、以来、誰からともなくここを名月峠、と呼ぶようになりました。


清盛~ (ノ`△´)ノ !!

だから貴方には、〇盛、□盛、☆盛、と、子供がモリモリ… o(`^´*)

姫だけでなく、家族もかわいそう (;_q)


(現地案内板、能勢町教育委員会 より抜粋)






中央が名月姫の宝篋印塔で、両側に、父(国春)と夫(家包)の五輪塔。

姫の側に今も寄り添って守ってるように見えます (ノ_<。)


月姫の宝篋印塔。屋蓋の隅飾りの散蓮は、能勢特有の近江式装飾文。
鎌倉時代後期の作。

今も名月姫を憚って、嫁入りの時は前を通らない風習が残っている名月峠。



きーよーもーりー (*`Д´)ノ!!!


いつも応援いただきありがとうございます。北向に走るときはいつも通る名月峠。いつお参りしてもとてもきれいに手入れされています。お気に入りの所なので、再掲でごめんなさい。峠道は桜並木。開花宣言は来週です。
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クリスマスツリーはいつ片付ける?顕現節まで待つの。

こんにちは。


素朴な疑問。クリスマスツリーはいつ片付けるのか。


だって季節のものにはそれぞれのお片付け時が。

そこで少しキリスト教の節句について。

イエスの誕生日・クリスマス(降誕祭)当日の前後にはそれぞれ待降節と降誕節があります。

待降節は、降誕祭前の4週間(日本では11月30日間近の土曜の夜から)。

特別なカレンダー(アドベントカレンダー。ビンゴのように一日ずつ穴をあける形が多く、お菓子が潜ませてあったりする楽しいもの)で指折り数えます。

日曜毎にアドベントリースに飾ったろうそくを灯します。

4本全てに灯したら、降誕祭。


イエスの誕生日。



東方の三人の博士は、イエスの誕生時にはまだ「ベツレヘムの星」に導かれて旅の最中。



途中でヘロデ王に「ユダヤの王はどこでせう?」と聞くおっちょこちょいな三人組。
自分以外の王が生まれたのかとヘロデ王があせり、ベツレヘム中の2歳以下の男子が皆殺しになるオチ。


彼等がたどり着くまで数日。


東方の三人の博士がベツレヘムのイエスのもとにたどり着き、イエスの誕生を祝った1月6日を記念して「顕現節」(エピファニー)といいます。


三人組が乳香、沈薬、黄金を捧げたときをもって「イエスが公に現れた」、つまり「主の公現」の日。キリスト教においては節目の日。

救世主が現れ、世界に救いがもたらされたことを感謝する期間「降誕祭」(12月24日日没後)から「顕現節」(エピファニー)前日までが「降誕節」です。


従って、1月6日「顕現節」が過ぎてからクリスマスツリーを片付けるのです。

しかし、師走には大掃除をして新年を迎える準備をする日本においては。

お正月に親戚が集まったりお客様が来たりしたときにクリスマスツリーがあるのはちょっと恥ずかしい。


年越し蕎麦食べて、紅白見る頃にはうっすらと酔ってるし。


除夜の鐘の頃には酔い潰れてるし。

鐘がひとつ、鐘がふたぁつ・・・Zzz


同行者に「奈良漬が歩いてる」と言われようとも根性振り絞って初詣。お神酒で迎え酒。

お寺や公共放送や神社やと、ちょいと多忙である日本ではどうするのか。

ちゃっちゃと片付ければそれでいいですよ、日本には日本の文化があるのですもの、って神父様が言ってました。


いつも応援いただきありがとうございます。神父様のお言葉は元も子もないお話になってしまいますが、年末年始の日本の習慣から考えれば至極ごもっとも。キリスト教には本来クリスマスツリーを飾る規定はなく、ドイツの樹木信仰を取り入れた習慣が19世紀以降に北ヨーロッパに広まったものですから、そこは臨機応変ってことでしょう。
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リクエスト戴いた画像の説明は続きで。

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きよしこの夜、もろびとこぞる。

こんにちは。

メリークリスマスです。


今日は「きよしこの夜」を英語と日本語で。

(注)必ずしも直訳になっていないので、英語と日本語の意味が異なる部分がありますので注意。

では。細かいこと言わずに、はいっ♪

Silent night, holy night!

「きよしこの夜」

All is calm, all is bright

「星はひかり」
ユダヤの王が生まれるのよ、とのお告げを受けた東方の三人の博士をベツレヘムのイエスのもとまで導く星。

Round yon Virgin, Mother and Child

「救いの御子は」

Holy infant so tender and mild

「御母の胸に」

Sleep in heavenly peace

「眠り給う」

Sleep in heavenly peace

「夢安く」

Silent night, holy night!

「きよしこの夜」

Shepherds quake at the sight

「御告げ受けし」

Glories stream from heaven afar

「牧人たちは」
イエスの降誕を天使が羊飼いにお知らせ(ルカによる福音書)。
イエスは自分を「私は善き羊飼いである」だと。羊飼い(イエスや聖職者)は羊(信徒)を導くもの。

Heavenly hosts sing Alleluia

「御子の御前に」

Christ the Savior is born!

「ぬかづきぬ」

Christ the Savior is born

「かしこみて」
東方の三人の博士は乳香・没薬・黄金を捧げます。





次にクリスマスに流れる賛美歌「もろびとこぞりて」。
ずっと待っていた救い主の誕生を喜ぶ歌です。









「もろびとこぞりて」(賛美歌第112番。聖歌654番)

諸人こぞりて 迎え奉(まつ)れ
久しく待ちにし 主は来ませり
主は来ませり 主は主は来ませり


賛美歌は主にプロテスタント。カトリックは聖歌。

ちょっとマニアック。


いつも応援いただきありがとうございます。皆様の手元にサンタさんへお願いしたモノは届きましたでしょうか?私は現金をお願いしたら、今月の給与明細が入っておりました。なんかちがーう。るるるるー(T_T)
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イエス・キリスト誕生物語と日本初のクリスマス

こんにちは。

今日はクリスマスイブ。


そして明日はクリスマス。ふ。

クリスマスとは、イエス・キリストの降誕祭。
いわば全世界規模のお誕生日会。



イエスが固有名詞、キリストは「救い主」。
よって、「イエス・キリスト」で「救い主イエス」。

イエスの降誕は新訳聖書の『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』のみに記述がありますが、「12月25日」とは記されておりません。古くからの冬至祭の日を誕生日としたというのが有力説。

母はヨゼフの婚約者マリア。
生まれた場所は、ユダヤの町、ベツレヘム。

処女のまま懐妊したマリア。ヨゼフ、パニック・・・には、ならず。

そこはちゃんと天使ガブリエルが事前に告知しています。


様々な洋画家が描く「受胎告知」はこの場面。
処女マリアは、♂によらず、聖霊により身籠ったのです。

「マリアとヨゼフの子であるイエスは神から遣わされた救い主、キリスト」ということで。


生まれた子、イエスは飼い葉桶に寝かされます。(正確にはこの時、馬は不在)

これは、ヨゼフとマリアが旅の途中で、宿が満室だったので家畜小屋に宿泊していたため。


イエスの降誕を天使が羊飼いにお知らせ(ルカによる福音書)。

イエスは自分を「私は善き羊飼いである」と語っています。
羊飼い(イエスや聖職者)は羊(信徒)を導くもの。

よって、羊飼いの持つ杖は、困難な状況にある信徒を助けるシンボルとして、司教様が持つ司教杖に取り入れられています。



東方の三人の博士は、ぺかーっと輝く星により「ユダヤの王が生まれた」と知り、星に導かれて旅をします(マタイによる福音書)。

途中でユダヤのヘロデ王に「ユダヤ人達の王はどこで生まれたの?」と尋ねます。

ヘロデ王にしてみれば、「俺以外の王って誰や!?」
三人の博士に、その居所が判明次第教えるよう指示。

そんな事があった後も、星に向かっててくてくてく。
ようやく立ち止まった星。その真下が、イエスの居場所。

東方の三博士は、イエスに「乳香(にゅうこう)、没薬(もつやく)、黄金」を贈り物として捧げます。

そして、ヘロデ王には夢のお告げにより、何も知らせず帰国。
後になってヘロデ王は自分の王座を脅かす者を探し出すためベツレヘム周囲の2歳以下の男子を皆殺しに。ひゃー。

ヨゼフ達は天使のお告げにより事前にエジプトへ脱出しており、助かったのでした。


クリスマスツリーのてっぺんの星が、東方の三人の博士を導いた星。「ベツレヘムの星」といいます。
飾りつけは自由に楽しんでも、てっぺんの星は忘れないでね。

東方の三博士がイエスに捧げた「乳香(にゅうこう)、没薬(もつやく)、黄金」。

乳香は、神に捧げるお香。
イエスの時代の前、紀元前のエジプトの墳墓からも埋葬品として出土。

没薬は、お香の他に、殺菌作用があるため鎮静薬、鎮痛薬としても使用。
ミイラ作成時には遺体の防腐処理のために使用されています。
聖書では聖なる所を清めるために使用するなど、頻出。

黄金は、ゴールド。

以上の登場人物達を人形で表現したものが、クリスマスの時期にはカトリック教会等で飾られています。


(wikipediaより)

中央にヨゼフとマリア、飼葉桶の中のイエス。
三人の博士with乳香・没薬・黄金や、羊飼いの姿、天使。



日本の最初のクリスマスは、1552(天文21)年。
周防国山口で、イエズス会宣教師コスメ・デ・トーレス等が、日本人信徒を招いて行った降誕祭のミサ。

トーレスはフランシスコ・ザビエルと共に日本に来ました。
ザビエルの離日後も日本に残り、ザビエルと同じように日本文化を尊重しつつ畿内・山口・豊後・肥前などを転々としつつ布教。

1570年、天草志岐(熊本県天草郡)で死去。

しかし、その後はキリスト教が禁じられたため、隠れキリシタン以外では明治の初頭になるまで全くクリスマスのミサは行われませんでした。

明治以降は、クリスマス商戦にまっしぐら。現在に至る、です。


(カトリック高槻教会の高山右近像。じゅてーむ風)

クリスマスミサは誰でも参加出来る教会が多いので、一度体験されてはいかがでしょう?

あ、私はクリスチャンではございません。宗教への勧誘は致しません。


いつも応援いただきありがとうございます。教会のミサに参加して迎えるクリスマス。初詣みたいなものでしょうか。今年のサンタさんは何をくれるのかしら。楽しみですわっ。おほほほ(涙)
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