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工兵第四連隊もいた高槻城跡。狛犬まとめて何匹?野見神社。

こんにちは。


高槻城と言えば、高山右近ですが。

右近が治めるずーーっと前から、高槻城界隈は京都と難波を結ぶ重要拠点。

高槻城の歴史は古く。

990(正暦元)年、近藤忠範が平地にあった小さな丘・久米路山を根拠地としたのが始まりと伝えられます。

ふ、ふふふふ、古いです。

古けりゃいろいろあるわけで。

久米路山(粂治山)付近の瀧ヶ淵の主、大蛇。(背景は高槻城土塁)

大昔の干ばつの際にご神託により久米路山に涌き出る清水を使ったら田畑が実ったので、大蛇を龍神として祀り社殿を建てました。


右近父子による寺社破壊から時を経て、元和年間に高槻藩主となった松平紀伊守家信が堀の中に社祠を建てて奉祀。

堀の中って、あなた。
水に纏わる神様は、水の中に?それとも空堀だったのかしら?


1908(明治41)年、社領を陸軍に寄進し野見神社境内へ遷座。


野見神社境内の小島神社。

【祭神】市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)・大己貴命(オホナムチノミコト)・磐長姫命(イワナガヒメノミコト)・天児屋根命(アメノコヤネノミコト)の四柱


大正3年、真上村山辻の春日神社を合祀。


例祭は10月2週目の日曜日に執り行われ式典終了後湯神楽を奉納。

さて、高槻城下。

永井の殿様がやってきて平穏な200年が流れておりましたが、明治維新。


明治元年の神仏分離令で、元々の祭神「牛頭天王」を「須佐之男命」と名を変え、更に野見宿禰命を合祀し「野見神社」と改称。

これで激動の時は終わったのかしら。

いやいや、平和になる前に、もうひと波乱。


1874(明治7)年、高槻城は取り壊され、工兵第四連隊の駐屯地となります。
工兵第四連隊(淀4079部隊・中部第29部隊)は、1888(明治21)年6月、工兵第四大隊として創設されました。


1909(明治42)年3月22日から兵営(兵隊さんの宿舎)と練兵場が置かれ、地域の防災に貢献すると共に、西南戦争、支那事変、大東亜戦争に従軍します。


高槻天主堂教会跡地(発掘結果を知っている今から思えばキリスト教墓地)に、憲兵分隊が置かれました。


おや?まだ、境内にはちびっこがいました。


高槻恵比寿神社。

初代高槻市長故磯村弥右ヱ門等が高槻市発展に必須な街の賑わい創造の為、えべっさんの総本社・西宮神社(十日戎の福男選びのかけっこで有名)から分神してもらい、高槻戎神社として鎮座。昭和31年創建。


こちらのえびす祭は、十日戎(1月10日)。
高槻市は企業が多く、えびす祭の当日の境内では福笹の授与を始め、甘酒無料配布や福引きなどで大にぎわい。


ほーれほれ。


ちびっこはおちりもかわいい。


兄ちゃん、しっかりしてあげてー!


お社は一番新しいのに、狛犬わんこは一番古参な気がします。


そういう意味じゃなくて、やねぇ。


車の点検帰りに立ち寄った高槻市の野見神社。
ぱっぱらぱっぱーなご報告は以上です。

クイズです。


狛犬わんわんは、いったい何匹いたでしょう?うふふふふ。


さて。高槻市の高槻城ちょろちょろ見学の最後に。


営門跡の「工兵第四連隊の碑」の碑文を添えます。



「門出せる昔を偲びここに立つ 永久の平和をともに祈らん」


いつも応援いただきありがとうございます。城跡には、勝者の証のつもりか役場と兵隊さんの駐屯地等が鎮座されますこと多く。その是非の問いはどーでもよろし。だって私に出来るのは、再び血が流れるようなことがないようにお祈りすることだけ。碑文の言葉の重さを背負いつつ高槻を後にしたのでした。
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ご主人様を待ってた狛犬。池田輝政が吐息した永井さんちの高槻藩

こんにちは。


高山右近の苛烈な布教に揺れた高槻城下。


式内社も遠慮なし。どんどん没収、どんどん破壊。


高槻を治める藩主がどんどん交代。

1619(元和5)年に高槻藩に入った松平家信は、城内の安全を祈願して牛頭天王社を新造するとともに、社領を寄進。しかし、松平家もよそへ転封。


ご主人様をずっと待ち続ける狛犬わんこが残されました。

1649(慶安2)年。運命の人が高槻藩に着任します。

それが、永井直清。本日紹介する永井神社の祭神様です。

誰。


父は、永井直勝。三河国碧海郡大浜郷(現在の碧南市音羽町)の人。

誰。

三河といえば徳川家康。
初めに仕えた信康自害後一時徳川を離れるも、家康に呼ばれて帰参し、小牧・長久手の戦いで、とある手柄を立て、こんなこと言われた人。

おわかりになりまして?

小牧・長久手の戦いで、討ち取った相手は、池田恒興。
そりゃもう、家康や織田信雄から賞賛されました。

池田恒興次男の輝政が家康次女を娶る時、輝政の求めに応じて長久手の戦いで恒興を討ち取った時の事を話した永井直勝。

この時直勝は5,000石。
輝政は父を討ち取った功績の価値が5,000石しかないのかと嘆息。

さすが家康。口では賞賛してもシワシワのケチケチです。

こんなエピソードを持つ直勝の次男が、高槻藩藩主となった永井直清。


わんこは一生愛してくれるご主人様を待っていました。


直清の兄・尚政は秀忠に仕え、宇都宮城釣天井事件で本多正純が改易された後、老中となりました。


1633(寛永10)年老中を解任後、山城国淀藩10万石へ入ります。


1649(慶安2)年、直清がここ、摂津国高槻藩藩主となります。


二人が京都に近い領地に配されたのは、兄弟共に有能であり幕府の信任が厚かったからでしょうか。


(唐門裏側の彫刻、おっとせい)

事実、兄の尚政は京都所司代と協力して京都や大坂の治安を担い、島原の乱が起こったときは、京都の守備を命じられます。


(あれ?おっとせいじゃなかった)

一方、直清は、京都所司代代理・大坂城代代理を歴任。
禁裏造営の奉行や大坂城普請を務めるなど、幕府からの信任が厚かったことがよくわかります。


三代将軍家光より拝領。高槻永井家専用紋の「永井鉄線」。


直清は藩政においても、城下町の整備や拡大、治水工事に努めて実高6,000石を増加させるなど、藩政の基礎を固めました。

直清は81歳で逝去。ご長寿でした。


待ってた甲斐があったね。よかったね。
狛犬わんこが笑顔だと、私も笑顔。


待ちくたびれて痩せちゃった?


カード使えますか?


丸っこいわんこもかわいいけど、柳腰もよいねぇ。


兄弟仲良し。平和がいいねー。

拝殿の彫刻祭。


高槻藩は、永井直清以降、明治維新まで永井家が治めます。


永井神社は、1793(寛政5)年、9代藩主直進(ちょくしん、じゃないよ。なおのぶ、だよ。京都火消役をしたんだよ)が藩祖の永井直清の霊神を祀り創建。

鳥居に、京都卜部家より「直清霊神」の号を受けたことが記されています。


高槻城内三の丸にあった野見神社境内の本殿東側に隣接。
当初は「直清神社」と称しました。


1848(嘉永元)年。
直清入城200年を記念して第11代直輝が社殿を修復し、新たにそり曲がった曲線状の破風の唐門と拝殿を造営。


後ろ足がたまりません。

仲良きことは美しき哉。


幕末には「直清権現」と呼ばれ、当時の藩士は親しみをこめて「権現様」と参拝していました。

やがて明治維新となり、高槻城は解体され、石垣や木材は国鉄の線路の敷石へと使われ跡形も無くなりました。


明治21年。旧藩士領民達がその遺徳を讃え東側に石碑を建立。
永井の殿様がいかに慕われていたかを思うと、泣けてきてしまいます。


今も野見神社と永井神社境内はご近所さんの憩いの場になっています。


参考資料
野見神社・永井神社由緒。現地説明板による。

野見神社・永井神社
住所・大阪府高槻市野見町6-6



いつも応援いただきありがとうございます。各地を廻ると、お殿様がどう思われていたのかが自然と伝わってしまいますよね。高槻は高山右近ばかりがフューチャーされますが、池田輝政のがっかり話ネタの(美形との噂の)永井パパと、京都と大阪を抑える「仲良しこよし」永井兄弟にも着目いただければこれ幸い。小躍りしてブランデーを飲みまくります。うきゃきゃ。
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僧侶だってキリシタン。右近城下野見神社の受難。

こんにちは。


高山じゅすと右近様の高槻城界隈。


野見神社のご紹介。


【祭神】須佐之男命、野見宿禰命

【創祀】9世紀後半第59代宇多天皇の御宇。この地方に悪病が流行し、死者多数の折、ご神託あり。


牛頭天王は、災厄・疫病を追い払うと言われていたことから、早速お祀りしたところ、悪病はたちまち終息。

皆、大いに喜び、ここに社殿を造り、牛頭天王社として祀りました。これが野見神社の創祀。

ちなみに牛頭天王総本宮は、

黒田官兵衛縁の広峯神社。じい様の目薬に広峯神社のお札を付けて御師達が売りさばき、がっぽり。

京都の八坂神社も広峯神社と同様に牛頭天王を祀ります。祇園祭は疫病退散のお礼のお祭り。


さて、お参りしましょ。

え。


入るかー!


きつーく叱って下さい。


え、そこ?


野見神社は、享禄・天文年間には高槻城主入江駿河守、和田伊賀守などの崇敬を集め、社領の寄進などもあり平和に時が流れていました。

しかし、高槻城に高山じゅすと右近父子が入って激動の時代へ。


高槻城城内に鎮座していた式内社の野見神社は、右近の父・友照により社殿破壊の上、社領没収。同地に高槻天主堂教会を建てます。


時の神職はご神体を石清水八幡宮にお引っ越し。

高山右近の布教の腕は天下一品。でもこんな苛烈なことするから・・・

ねえねえ奥さん、畿内なのに高槻市内には神社やお寺が皆無なんですってねー!なんて言われるのよ。(そんなことないです。あります。)


ただひたすら一途に神を信じた高山右近。

右近が船上城(明石)へ転封となった後の高槻城下は秀吉の直轄領となり、やがて新庄直頼が治めるも関ヶ原で西軍に付き改易。

1615(元和元)年、内藤信正が入り高槻藩が立藩。高槻城を改修、増築。
以降、土岐定義・松平家信・岡部宣勝・松平康信(家信次男)等、高槻藩藩主は目まぐるしく変わります。


その中で、1619(元和5)年に高槻藩に入った松平家信は、城内の安全を祈願して牛頭天王社を新造するとともに、社領を寄進。


1649(慶安2)年に新たな藩主となった永井直清。


更に社殿を修築し、社領を寄進して例祭日を10月14日と定め、臣下・領民とともに盛大な祭礼を行うようになりました。


高槻藩永井家初代・永井直清を祀る永井神社。

この永井家は明治維新まで高槻藩を治めます。

江戸時代には城内随一の神社として「高槻城絵図」に記される野見神社に、再び激動の時が到来するのは、明治元年。

神仏分離令により、牛頭天王は「須佐之男命」と名を変え、更に野見宿禰命を合祀して、「野見神社」と改称。

延喜式内社として郷社に列し、神饌幣帛料進社に指定されました。

やれやれ。

むいー?


そろそろ秋の花粉症のオンシーズンです。


参考資料
野見神社由緒。現地説明板による。

野見神社
住所・大阪府高槻市野見町6-6



いつも応援いただきありがとうございます。高山右近。その苛烈っぷりに惚れ直します。やるときゃやる男です。野見神社近隣はキリシタン墓地。ロザリオを胸に抱いた信者の遺骨が出土。とても不思議な所です。
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「戦国大阪の城」展。高槻しろあと観光案内。

こんにちは。

車の点検でおでかけしたついでにこちらへ。

特別展示「戦国 大阪の城」を見てきました。

ありがたいなーと思ったのは、大阪府内の城が時系列で紹介され、南北朝の屋敷から中世城郭に変遷していく中での土のもこもこ山城を中心に展示があったこと。

パネル展示でも、とても興味津々。

他には発掘調査で出た武具(普通は捨てないから出ない)、茶碗等々。

面白かったのは、瓦を使い回していたこと。3回は軽く使ってた形跡があるとか。

それと、瓦の金箔の違い。


信長は凹に金箔、秀吉は凸に金箔。
何故かは不明ですが、こんな違いもあるんだと初めて知りました。

また、高槻市立しろあと歴史館所蔵の川口コレクションの中から、黒田官兵衛のおうちの家紋であるお餅紋とぐるぐる藤紋が細工された長刀が展示されてました。

得した気分です。


高槻市立しろあと歴史館のある場所はその名前のまんま、高槻城跡地。

高槻城といえば、

高山じゅすと右近様のおうち。


キリシタンの高山右近が父と高槻に入った際に、父の友照が「もと神の堂ありし処」(宣教師ルイス・フロイス『日本史』)に建てた高槻天主教会堂の推定地となっています。今は商工会議所ビルと野見神社。


商工会議所の前には高槻城の石が転がってます。

横には

右近の父に没収された野見神社が江戸時代に復活。ほんとは式内社。
高槻城の城内に唯一建てられた神社。


境内には、江戸時代から明治維新まで高槻を治めた永井氏の永井神社。


かつて教会に隣接していたという「キリシタン墓地」が、江戸時代の厚さ2メートルに及ぶ盛土の下から発見されたのが野見神社と商工会議所ビル辺り。

棺の蓋板に墨書された二支十字(干、の形に似た十字)や死者に添えられた木製のロザリオは、発掘資料としては日本最古。

宣教師フロイスの記録の正しさを示す貴重な資料ともなっています。
高槻市立しろあと歴史館の常設展示で見ることができます。


野見神社から徒歩10秒。野見神社の隣の隣はこちら。

高槻カトリック教会の敷地内には


じゅてーむ高山右近様がお待ちしてます。


機会があればぜひ、高槻へお越しくださいませ。


いつも応援いただきありがとうございます。お城は現地でうろちょろするのが楽しいですね。整備されたところからぼちぼち行こうと狙っております。
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名月姫と平清盛の伝説残る名月峠。大阪府豊能郡能勢町。

ローカルな場所でごめんなさい。今日は豊能郡能勢町のお話。


有岡城の戦いの際、当初は共に荒木側についていた中川清秀・高山右近は信長に応じて開城。能勢頼次の動向は不明。
本能寺の変後は明智についたため以降は一旦潜伏し、関ヶ原後、徳川幕府の旗本として明治まで能勢氏はこの地で続きました。

尚、能勢氏の発祥は多田源氏。

大阪府の最北端で、別名「大阪の北海道」。標高も高くて、市内より5-6度低く、冬は凍結注意。
でも、ここの作物は四季折々に豊かで、お住まいの方々は温かくて、とても素敵なところです。週末は、ドライブついでにこの辺りへ野菜を買いに行きます。


能勢町から西へ向かう道中の名月峠がお話の舞台。



「摂津御園荘浜村(現、尼崎市)の三松刑部尉国春が大日如来様に願掛けして、とても美しい名月姫を授かり、姫はやがて能勢家包(いえかね)の妻となり幸せに過ごしていた。

ところが、平清盛に見初められてしまう。

権力には逆らえず、清盛のいる福原(現、神戸市)に向かう途中、名月姫は夫への貞節を守り、この峠で自害し果てた。

姫のなきがらは峠に葬られ、以来、誰からともなくここを名月峠、と呼ぶようになった。」(現地案内板、能勢町教育委員会 より抜粋)


清盛~ (ノ`△´)ノ !!

だから貴方には、〇盛、□盛、☆盛、と、子供がモリモリ… o(`^´*)

どこで見初めてん。能勢で平和に暮らす人妻を。なーなー、清盛ぃー?

姫だけでなく、家族もかわいそう (;_q)






中央が名月姫の宝篋印塔で、両側に、父(国春)と夫(家包)の五輪塔。

姫の側に今も寄り添って守ってるように見えます (ノ_<。)


月姫の宝篋印塔。屋蓋の隅飾りの散蓮は、能勢特有の近江式装飾文。
鎌倉時代後期の作。

今も名月姫を憚って、嫁入りの時は前を通らない風習が残っている名月峠。



きーよーもーりー (*`Д´)ノ!!!

こわかったやんかー!


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《高槻市》高山右近様に会いに行ってきた

高槻城跡は、高槻駅の南側にあります。

石積は国鉄の線路の敷石にされ、なーんも残ってないです。


京都と大阪の中間点にあり、陸路は北側に西国街道、水路は淀川で大阪市内の八軒家へ人や荷物を運ぶ、交通の要衝でした。

高槻城は、室町時代より芥川山城の三好氏の支城として入江氏がおり、信長に滅ぼされ、和田氏を経て高山右近が入ります。

高山右近は本格的な城塞を造りますが、秀吉のバテレン追放令に対し、信仰を選び領地を棄てた右近。



以後藩主はコロコロ代わり、やっと永井家36000石の城下町に。以降明治まで13代。


永井神社
1793年9代藩主直輝が、高槻城三の丸の一角に初代藩主直清を祭神として創建。
上の地図の「現在地」から、堀を挟んで北西角。堀は現在は道路に…。





実は高山右近は、キリスト教にはいい人ですが、領内の神社仏閣を破壊しまくったので、高槻市は畿内なのに古い神社仏閣の建物がないという…。
この神社は、出来たのは右近のずっと後。だから、あるのね。


郵便局の車がいる道路が、現在地から南に伸びる堀部分。
ほんまに、堀が道路になってるのがわかるかと…(T_T)


ちぇっ。


かーみともにいまぁしぃてぇ~♪


高山ジュスト右近、顕彰碑。


…難解。

えらく情熱ジュテームなのは、作者がイタリア人だから…(ほんとだよ)


さささ、さくっと移動!






ガラケー比較。


城跡公園。








右近様、これが〇女子っちゅうもんです。


右近様、一言言わせて下さい。

…すっきり (*≧∀≦*)


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