滝之宮神社。年貢未納の者は水牢へ

こんにちは。


ちびっこ狛ちゃんがとってもきゅんきゅんな馬見岡綿向神社を後にして


落ちる。 降りる。


あらぁー、素敵じゃございませんことー?


滝之宮神社です。


ひとまたぎ。


きゃっ。こーまちゃーん♪

【祭神】須佐之男命

【由緒】(滋賀県神社庁HPより)

「創祀年代不詳。

馬見岡綿向神社の境外末社であり夏越祓の地であった。

当初は河原に在りて河原宮と称した。

寛文4年現在地に遷座された。
境内に雌雄の滝があり故に滝之宮と云う。」



確かにこの高低差なら、滝があったのも想像出来ます。



よっしゃ。遊んだろっ。


えーっ。私がー!?


やーよ。めんどくさいわっ。


境内の外は、丘に挟まれた平地。


この辺り、面白い地形です。


蒲生貞秀墓所から見ると


こんな感じ。遠くに見えるのは、綿向山。

実はこの平地は、

天文16年(1547)まで日野川の河床でした。

由緒によれば、当初は「河原に在りて河原宮と称していた」が、
寛文4年(1664)現在地に遷座。


「滝之宮」神社の名称の由来である境内の雌雄の滝。

延宝6年(1678)。

年貢を納めることが出来なかった農民が、雌雄の滝の下に作られた「水牢」へ閉じ込められたという悲しいお話が伝わっています。(現地説明板より)



たぶん、本殿に向かって左の辺り。

さて。


ぷくぷくちゃん。


お手々、ぶっとくない?


何か、いない?


さて、どこにいるでしょう?

ち、ち、ち・・・


ここ。ちび狛、必死。


かーちゃん、気付いてあげようよー。


悲しい伝承と、かわいい狛犬さんのお社でした。


あ、忘れてた。

ボールはどこだ。ボール、ボール。


あら、いっぱい。


おしまい。


いつも応援いただきありがとうございます。
見ての通り、訪問は秋でした。滝の下に作られた水牢に閉じ込められたらとても寒くて怖かったことでしょうね。一罰百戒でしょうか。そんなことがあったと知らなければ、とても落ち着いたお社。けれどそれを知ったら地理的に納得したり、ちょっと心臓がバクバクしたり。よくよくおまいりをして、そそくさと失礼してしまいました。

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蒲生氏郷。蒲生家氏神・馬見岡綿向神社の狛犬達

こんにちは。


猿楽談義が続いたので、狛犬さんとご無沙汰。寂しかったわ。

改めまして、こんにちは。


まぁ、ご丁寧に。


ここは滋賀県蒲生郡日野町。

日野町は、蒲生氏代々の土地。


蒲生氏第14代・貞秀の墓所。

第19代の蒲生氏郷はここで生まれ育ちました。


蒲生氏の氏神、馬見岡綿向神社。

今日は狛犬の日。


まあ、そっくり。


笑いすぎ。


落ち着いた雰囲気です。


頑張れ、ちび狛!


ふんどし、ではありません。尻尾です。


笑いすぎだってば。


あーあ。

とーちゃんはしばらく、孤独な日々が決定。


とーちゃんの背後に、いのしっしー。


本殿の神殿狛犬、お仕事熱心。


えんじょーえんじょー。


しゅっとした美形は、境内社の浅間社のお狛犬様。


売られた喧嘩は買います。例え相手が石燈籠でも。


そうなのー、僕の彼氏なのぉ?

・・・え。


乳歯がときんときん。


牛さん、流し目はよして。

さて。馬見岡綿向神社からトコトコ歩いて


次のお社へ。

つづく。


蒲生氏郷と馬見岡綿向神社については、こちら。


◎蒲生貞秀◎

⇒⇒⇒蒲生貞秀墓所。千とせの後の人もたつねむ。氏郷断腸の思い。
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-264.html

◎蒲生氏郷◎

⇒⇒⇒蒲生氏郷「わが故郷をよそに見んとは」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-263.html

⇒⇒⇒レオン氏郷のおうち。日野城址
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-265.html

⇒⇒⇒蒲生定秀。孫が生まれたよ!お祭り騒ぎ日野祭。
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-266.html

◎馬見岡綿向神社◎

⇒⇒⇒由緒
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-267.html

⇒⇒⇒由緒とイノシシ
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-268.html

⇒⇒⇒豪華な絵馬達
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-269.html

⇒⇒⇒浅間社のちびっこ狛犬
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-286.html


いつも応援いただきありがとうございます。
レオン氏郷と狛犬好きにはたまらない馬見岡綿向神社。実は次記事の神社はここと関係がありまして。で、画像を加工し直していたら、大量になってしまいました。長い間、狛犬不足だったのでとても楽しかったです。うふふふふ。

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日雲神社。何はさておき不思議な狛犬。

こんにちは。

ちょっと閑話休題。狛ちゃん不足につき。


滋賀県甲賀市信楽の日雲神社。


崇徳天皇の御代に皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が皇祖神天照大神を奉じ、その鎮座の地を求めて各地を巡行のとき、信楽に4年の間滞在されたのが当社の起こりとされる。

鎮座地が小字上野である所から上野山天神と呼ばれ、牧、宮町、黄瀬三村の氏神であった。

別当寺として天徳寺があったが、明治の神仏分離により廃寺。

文政5年(1822)牧村一カ村の氏神となり、明治18年(1985)日雲神社と改めた。
(現地説明書より)

祭神は、天御中主神。

へぇー。



延々と続く木陰の参道♪


あ、社殿が見えてきまし・・・たが。

なんだこりゃ?


境内を横断する線路でした。


信楽といえば、たぬたぬ。

信楽高原鉄道です。


ぜーぜー。


何事もいっしょうけんめいが大切。

さぁて、狛犬さんはどこかしら?

こーまちゃん♪


こ、こまちゃ・・・


狛犬さん、いないねぇ。


やせやせ。


ほねかわすじえもん。


えっ。


きゃー。


お口から何か出そうよーっ。

きゃー。


あ、ごめんね。


忘れてました。


ほっそー。


びみょーです。


おしゃれさんです。

石を彫って細工する狛犬さんとは趣を別にする、とても個性的な狛犬さんです。(よね?)


うんうん、ほんとほんと。


笑いすぎです、あなたたちっ。


あら、失礼。


ぷっ。


本殿は、元禄4年の再建。


帰りも、線路がとおせんぼ。うふふ。


狛犬チャージ、かんりょーです♪


日雲神社
《住所》滋賀県甲賀市信楽町牧75





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とても個性的な狛犬さん。由緒も何も吹っ飛ぶインパクトですが、この子に会うために最近は多くの人が訪れるそうで。ポストカード作って♪というお願いがあるとか。誰に出すのかしら。暑中見舞かしら?

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佐野町の天神社(3)丹波佐吉がこだわるもの

こんにちは。


新旧佐吉の天神社の狛犬さん。

台座の『奉献』『朝日構』『作師照信(花押)』の文字の特徴から、

「台座の銘は佐吉初期に属すると考えられる。一方、狛犬はその様式から明らかに摩氣(※摩氣神社)のすぐ前に来るものでその習作であったと考えるのが妥当である。
そして摩氣は、州浜にある銘から佐吉の初期ではなく晩期に入るので、佐野の天神社の狛犬も晩期に作られたと判断できる。」

(『丹波佐吉の狛犬再記載ー佐野・天神社』磯辺ゆう/奈良文化女子短期大学)

という、狛ちゃん。新旧佐吉の合作ですね。

狛犬と台座で年代が異なる理由は文献がないため、何らかの理由で壊れてしまったかどうか不明。


円熟期の佐吉の台座は、こんな感じに。


柏原八幡神社の狛犬の州浜(狛犬のすぐ下の盤)と台座。

州浜と台座には、細い枠線があります。


「作師/源村上照信(花押)」


台座参道側「奉献」部。ふかーいふかーい。


この上におすわりする狛犬さん。

お手手の関節が簡略で、ちょこん、っと揃えて着地しています。


さて、佐野の天神社では。


本物のわんこのように関節があり、左右が前後しています。


摩氣神社の丹波佐吉も同じ。


より本物のわんこに


近い描写になっております。


やはり素晴らしいのは、特に阿ちゃんの髪の流れですが


何気ないこれ、胸の筋。細かいなー。


向かい風の吽ちゃん、髪の点では少し不利。


阿ちゃんとは逆の、外巻きカールがかわいいです。


あああ、かわいい。


聞いちゃいない。


これはこれで仲良しさん。

丹波佐吉を滋賀県で堪能できて、幸せでした。


天神社
《住所》滋賀県東近江市佐野町




いつも応援いただきありがとうございます。
とても暑苦しくてすみません。丹波佐吉の狛犬さんは、現在確認されているものは20体。中には壊れたためか行方不明のものもあります。名工の作とわかる前から狛犬さんを大切にされてきた天神社の氏子さんや神職の皆様に感謝ですねー。あああ、ほんとに素敵な狛ちゃんでした。

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佐野町の天神社(2)丹波佐吉狛犬の追い風と尻尾の毛束

こんにちは。

今日も今日とて狛犬日和。

しかも、丹波佐吉ですわよ、奥さんっ♪


宝が持ち腐るぞ、こら。


仲良くお歌を奏でるこちらは、

滋賀県東近江市佐野町の天神社。

「台座・銘は佐吉の最古期であるのに対し、狛犬は最後に近いもの(※製作でいうと最新)と考えられる。」(『丹波佐吉の狛犬再記載ー佐野・天神社』磯辺ゆう/奈良文化女子短期大学)

台座の銘では弘化4年(1847)の奉納で、天神社が鎮座する能登川地区最古の狛犬であると思われていたものが、狛犬の特徴を考察した結果、文久3年(1863)以降数年の間に奉納された摩氣神社の狛犬よりは少し前、と考えられるそうです。(同上)

というのも、摩氣神社の狛犬が、


突然変異の如く異質であり、木造の神殿狛犬のような精巧なもの。


ここに至るまでの試行錯誤が、ない。

そこに現れたのが


佐野の天神社の狛犬。


うりふたご。

摩氣神社の狛犬へと結実する過程が見られる事から、天神社の狛犬の製作年代が推定されるとか。

面白いですね。


阿ちゃんは追い風、吽ちゃんは向かい風。

風が一定方向に吹く天神社に対し、摩氣神社では、


ひゅおーっと


どちらも追い風。たなびく髪がお見事です。


仲良し阿ちゃんと吽ちゃんですが、髪の流れのように少しずつ相違点が。


天神社の阿ちゃんの尻尾。

小さな直毛束があります。


吽ちゃんは、ちょっと長めの毛束。


阿ちゃんは、外側の尻尾にも、小さな毛束。


こちらは、まるっと美味しそうな尻尾。


後ろ姿のこのかわいさは、凶器です。きゅーん。

この二人の尻尾が


摩氣神社では、ふさふさに。


すげーなっ。狛犬って、すげーなっ。

つづく。


天神社
《住所》滋賀県東近江市佐野町




いつも応援いただきありがとうございます。
狛犬さんの阿ちゃんと吽ちゃんで微妙に髪型や尻尾が異なるものは、他の子にも見られますが、丹波佐吉がどうしたらいいかなー?こうしてみたらどうかなー?っと工夫している様子が感じられてとても興味深いです。吽ちゃんの尻尾のような、ころんっとしたもみじ饅頭を佐吉も彫っていたところが、何となく微笑ましいです。

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佐野町の天神社(1)丹波佐吉の麗し狛犬

こんにちは。


ほんとにお邪魔なわたし。

大勢の氏子さん方がきれいにきれいに掃き清めておいでです。

ここは、滋賀県東近江市佐野町の天神社。


狛ちゃん、おはよー。


ラジオ体操♪


起きてー。


そうよー。一緒に歌ってあげようよー。


あれれ?

なんか、麗しい狛犬さんじゃありませんこと?


気のせいかしら。


この「しゅたっ」のあんよ・・・


いたいた!

「作師照信」

丹波佐吉の狛犬さんです。


ちょっとー!おすましあそばしっ。


そうそう。えっへん。

この二人は


京都府南丹市園部町に鎮座する摩氣神社の狛犬さんです。


豊かな髪の流れ、ふんわり美しい尻尾に細かい細工。


摩氣神社の狛犬さんはこちら

⇒⇒⇒「摩氣神社の丹波佐吉狛犬『阿』」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-193.html

⇒⇒⇒「摩氣神社の丹波佐吉狛犬『吽』」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-194.html



佐野の天神社。


摩氣神社。


ほんと、そっくり。



こちらは兵庫県丹波市柏原町の柏原八幡神社。

故郷に戻った佐吉が恩人の依頼で生み出した渾身の作です。

⇒⇒⇒「柏原八幡神社。佐吉渾身の狛犬物語」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-404.html



徳島県美馬市脇町の八幡神社のちびちゃん。

手元でかわいがるならこちら。うふふふ。

さて。


佐野の天神社の狛犬さんが丹波佐吉の作と確認されたのは、

ほんの数年前。


まだまだどこかにいるのかもしれません。

つづく。


天神社
《住所》滋賀県東近江市佐野町



いつも応援いただきありがとうございます。
孝明天皇より「日本一」の称号を賜った丹波佐吉。故郷を離れワタリの石工として各地にその足跡を残しながらも、哀愁漂う人生を送った彼の狛犬さんを求めて、滋賀県東近江市。実にあっけらかーんっとおすわりしていました。あああ、幸せなりぃー♪

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大森神社(6)大森における最上家最後の当主と社格

こんにちは。


戦国の雄・最上氏が改易後1万石(後に5千石)で陣屋を構えた、

近江国蒲生郡大森の地。


祭礼用の注連縄かしら。かわいいなー。



天智天皇の御代、布引山麓に誉田別尊を勧請(社伝)したことに始まる大森神社。

境内に比叡山の僧・徳珍が薬師如来を祀り「玉尾山長福寺」が並立。

⇒⇒⇒「大森神社・由緒」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-888.html


江戸時代前期より、領主最上氏の崇敬を受けましたが、


明治13年、大森神社と改称。
「村社」に列し、同41年神饌幣帛料供進指定。

これは、

「官社以下定額・神官職制等規則」(太政官布告・明治4年5月公布)による新たな「社格制度」に基づくもの。

「村社」とは、村から神饌・幣帛を供される神社。


社頭の社号標。

社名の上が削られていますが、ここには社格を示す「村社」の文字があったはず。

※「社格制度」⇒⇒⇒「社格制度。式内社から現代まで」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-447.html


昭和21年2月2日。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の神道指令による神社の国家管理の廃止に伴い、社格制度も廃止。

基本的に「じんじゃ、みな、びょーどー」(伊勢神宮と別表神社を除く)


鳥居横の社号標。

社格を削ったり埋めたりしたのは、GHQからの干渉を防ぐためでした。



えっ。


本殿前の土壁には、足利二つ引紋。

本殿周囲には、摂社・末社。


はい、何でしょう。


はーい。

八幡社・津島社・外宮・内宮・愛宕社・八坂社・行者社・御沢社。


行者社って、なんだろう・・・。

この正面には


最上氏寄進の梵鐘。


同じく、最上氏助成の舞殿。


江戸時代最後の当主は、最上義連(よしつら)

老中井上正春の五男で、最上家には養子。

勤皇家。

特に戊辰戦争時には、朝廷に献金し尊皇の真情を示し。

一方、山形の農民に対し、官軍のために食糧を提供するよう働きかけたといいます。
(最上義光歴史館「最上家をめぐる人々♯36 【最上義連】」より)

新政府がスタートすると、大森に明道館を設けて領民教育に尽力。

明治2年(1869)12月、士族編入。

同3年(1870)正月、版籍奉還。永世禄150石。
同年10月、京都府貫属士族。

※京都府貫属士族とは、「京都に居住する士族」
士族などの戸籍制度の一環で、居住する土地をもって「貫属」としたもの。

つまり。

最上義連は、京都府に在する士族。

最上家が200年以上治めてきた近江国大森から、

さようなら。


ま、あっさりしたもんですな。


それでも、ここ、大森神社では今も領主最上氏を慕い、



最上義智が元禄8年(1695)に「高家」、従五位下侍従・駿河守に叙任したことを領民が踊って祝ったことに始まる「最上踊り」が


数百年の長きに渡り続いています。


大森神社、歴史を感じる素敵なお社でした。


ちびちゃん、お手伝いありがとー。


よーしよしよしよし。


大森神社
《住所》滋賀県東近江市大森町 大森神社


県道46号線を北へ向かうと、玉緒小学校。
そこが、大森の最上家陣屋跡地。


いつも応援いただきありがとうございます。
かわいいちび狛ちゃんに助けてもらった大森神社のお話は今回でおしまい。また長々とお付き合いいただきありがとうございました。滋賀県の神社は、地理的に様々な時代のいろんな人が関わっているので、とても面白いです。

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大森神社(5)宮座と祭礼。湖東の宮座建物

こんにちは。


改易となるも近江国蒲生郡大森の地で改めて土地を得た、出羽山形の雄・最上氏。

かの最上義光の後継達が残した


足利二つ引紋が光る舞殿。


最上義智は、元禄8年(1695)。

「高家」就任と「従五位下侍従・駿河守」叙任。


これを祝して領民が始めたという、最上踊り。



宮座、によって祭礼の日に執り行われます。


【宮座とは】

地域の鎮守もしくは氏神である神社の祭祀に携わる村落内の特権的な組織及びそれを構成する資格者の集団。
専任の神職を持たず、宮座の構成員が年番で神主役を務める当家(とうや)制を取る。(wikipediaより)


西日本、特に畿内、また琵琶湖湖東地域ではよく見られる形態です。

特定の家が代々世襲するものや、一定の年齢に達した者が入り持ち回りで務めるもの、様々です。


《三所神社》


滋賀県甲賀市朝宮の三所神社。

宮座建物が残る滋賀県でも数少ないお社です。

祭祀を執り行う宮座は、7座。

向かって右側:幣之座・大座・今座の3棟の建物、
同・左側:出ケ座・姫座・親座・孫座、建物は1棟。



間取り、建具の様式、炉の位置や大きさ、屋根様式など細部はそれぞれ異なりますが、神前で催される祭礼を見るための桟敷的な構造、開放された総窓は共通。


《油日神社》


滋賀県甲賀市の油日神社。

社伝縁起には用明天皇、或いは天武天皇の頃の創始。



甲賀には、甲賀五十三家の同名中からなる自治組織「甲賀中惣」があり。

甲賀五十三家の総氏神である油日神社は、天正14年に「甲賀中惣」より永代神領百石の寄進を受けています。

毎年の油日まつりには甲賀武士の中から五頭殿が巡年参向。

油日神社の詳細はこちら
⇒⇒⇒甲賀の総社油日神社。由緒と甲賀五十三家
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-285.html?sp



楼門の両側に広がる廻廊。


「これまで支えて来たのは、何といっても油日谷七郷の氏子たちで、今では珍しい「宮座」というものが、この周辺の村には残っている。
(略)
楼門や本殿は、室町時代の建築で、周囲にきよらかな回廊がめぐっており、祭りの時には、ここに宮座の連中が居並ぶという。」


(白洲正子『かくれ里』1971年/講談社文芸文庫・1991年)



何とも風格のある建物です。


《徳島県美馬市の白人神社》



祭祀の中心を担い、武装してお社を守ってきたのは、忌部(いんべ)族の子孫とも言われる75人の宮人(みょうど)。

いわゆる「宮座」のひとつの形態。

藩政時代に武装解除された宮人は、自らの姿を木像に刻して神前に侍らす(75体の神像が社殿内に奉祀される)こととなり、以降は祭礼にのみ参集することになりました(『穴吹町誌』1071頁)。



滋賀県で7座や3座にうはうはしていたら、ななじゅうご。
それが、神像となり、今も神様をおまもりしているなんて。

いやぁ、ほんとに驚きましたのよー。


白人神社の詳細はこちら⇒⇒⇒白人神社の75の宮人
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-793.html


【大森神社の宮座】

舞殿の向かいにある宮座の控えの建物。



大森神社の宮座は、三座。

九門(公文)座、平尾座、助座。


長男に限り出生と同時に所属する座に入座。

各座においては、座の最古参を一番序、次を横座頭、次三名を横座と称し、それ以下を座講と呼ぶ。



以下、「大森神社/滋賀県選択無形民族文化財『大森神社の宮座行事と最上踊』」より引用。


「社記に依れば応永3甲子年(1396)本殿改築に際し神主、村役人とともに一番序が神移しの神事に供奉したことが記されており当時既に当社には宮座が存在していた事が窺われる。

一番序、横座頭には現在も厳しい物忌や序列があり、春秋二回の大祭をはじめ年間20回に及ぶ当社の行事は総て宮座を中心にして行われる。」



「最上踊りは『風流』の中の『小歌踊』に属し、
その発生は歌詞より推して徳川初期と考えられる。

旧記に依れば毎年3月3日の当社の祭礼日には、領主最上氏にも上覧に供された模様である。

祭礼初日の夜の『宵宮渡り』及び翌早朝の『卯の刻渡り』の際に、
『神いさめ』の神事と共に座講(※宮座三座の各々のうちの上位である一番序・横座頭・横座を除く人々)により奉納される。」(引用終わり)



最上氏より、十人の足軽を出し、長柄槍を捧げて、神輿渡御の警護をしたという大森神社の祭礼。

現在は毎年4月第1土・日曜日に行われます。



いつも応援いただきありがとうございます。
「宮座」の風習が残るお社でも、昨今の担い手不足により存続が難しくなっていますね。祭礼の形を変えて続けていくのか、昔からの形のままの伝承が出来ないならやめてしまうのか、皆様悩んでいることと思います。最上踊りは、盆踊りのように誰も彼も参加してわいわいと踊るものではない点に魅力を感じます。

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大森神社(4)最上氏が残した有形無形。祝いの最上踊り

こんにちは。

元和8年(1622)。

最上騒動により改易された出羽山形藩主の最上義俊。

家柄を惜しんだ幕府により改めて、

蒲生郡・愛知郡・甲賀郡、三河国内、1万石で大森藩立藩。



が。

寛永8年(1631)に、最上義俊が死去。享年27。

嫡男の義智に家督相続が認められたものの、まだ2歳。

幼少を理由に領地を半減され藩も廃され、5千石の旗本に降格。



つまり大森藩は、

元和8年(1622)立藩、寛永9年(1632)廃藩。

以後の最上家は陣屋を構え、交代寄合として存続。

※交代寄合
禄高が1万石以下の旗本ながら、大名と同等もしくはそれに準ずる待遇を受けた。参勤交代は任意。(wikipediaより)


明暦元年(1655)、義智は初めて領地に赴任する許可を得ます。


こらこらこら。


大森神社は、この新しくやって来た最上氏代々の崇敬を受けました。

毎年の祭礼には最上氏が十人の足軽を出し、長柄槍を捧げて、神輿渡御の警護をしたとか。



延宝7年(1679)鳥居を建立。

元禄6年(1693)梵鐘、神輿、燈籠、後に舞殿を建立寄進。


最上家の助成で建てられたという舞殿。


ここは近江国蒲生郡大森。

あなたは、最上家家紋「足利二つ引」。


はいはい。


舞殿の各所に、最上の家紋。


今も残る最上氏寄進の梵鐘。


家督を継いだ時にはまだ2歳だった義智。

領民が慕う名君に成長したといいます。



そんな義智も、はや還暦を過ぎて数年。

ニュースです。


元禄8年(1695)12月15日。

義智は、「高家」に就任。

同年12月18日。

従五位下侍従・駿河守に叙任。


あああ、やっと明るいニュース。


嬉しいねー。

高家とは江戸城内で勅使接待など、特殊な儀式を担当する役目。
有名なのは、吉良上野介。最上氏と同じ清和源氏。

※ただし、最上氏の高家就任は一代限り。


この足利二つ引紋が役に立った。


このニュースを聞いた領民達は、


義智の叙位を祝い、藩の繁栄を祈って踊り始めました。

これが、滋賀県指定無形文化財の

「最上踊り」。


(滋賀・びわ湖観光情報より引用)

明治維新までは旧暦3月3日に陣屋の馬場において、最上氏の前に舞を納めましたが、維新後は大森の大森神社と尻無町の八坂神社の春の祭礼時に奉納されています。



おめでとうの気持ちが込められた最上踊り。

数百年間も変わらず領主最上氏を慕う気持ちがほこほこします。


大森神社
《住所》滋賀県東近江市大森町 大森神社


県道46号線を北へ向かうと、玉緒小学校。
そこが、大森の最上家陣屋跡地。


いつも応援いただきありがとうございます。
かの最上義光の後継が、なぜここに?と、ほんとにびっくり。芸は身を助けるではないですが、家柄は最上氏を助けたと言っていいのかな。しかし幕府にとっては渡りに舟な最上騒動。やることが姑息な感じは否めません。それに比べて大森の人々のあったかいこと。躍りを文で説明するのは難しいので、最上踊りで検索すると様々な動画があります。そちらをぜひ。

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大森神社(3)大森藩と最上騒動

こんにちは。


滋賀県東近江市の大森神社。

むかしの名前は、近江国蒲生郡大森。

元和8年(1622)大森藩が立藩、寛永9年(1632)廃藩。


本殿。

朝廷から許された菊花の紋と、足利二つ引紋。

この付近を治めた大森藩藩主は、


そうね、ちびちゃん、


最上氏ねーっ。


最上氏といえば。

足利氏(清和源氏)の支流・斯波氏(三管領)の分家。

最上氏全盛期は、第11代当主で出羽山形藩初代藩主の、最上義光

関ヶ原の功績により、57万石の大きなおうち。

出羽山形藩とは、


・・・どこなんだ。

置賜郡を除く現在の山形県全土と秋田県由利本荘市周辺(1602)の計57万石。

なぜそんな大藩が、1万石で大森藩に?

原因は、最上家内のお家騒動。いわゆる「最上騒動」です。


【最上騒動】

《発端。義光の後継》

長男・義康 × (家督を逃した頃、変死。アヤシイ)
次男・家親 ○ ←江戸へ差し出され徳川秀忠に仕えていた。

慶長19年(1614)義光死去。

6年後、家親急死(37歳)。アヤシイ。

「猿楽を見ている途中に頓死。皆が怪しんだ」(『徳川実記』)
「加藤惣内の娘・おひさが湯殿で刺殺した」(『羽陽軍記』)


《山形藩第3代藩主》

第3代藩主は、義俊(家親の一人息子)。

12歳。

頼りない。

そもそも第2代家親は、ずっと江戸暮らしで、家臣にも地元にも馴染みがなく。


☆派閥その1☆第3代藩主・義俊派

☆派閥その2☆義光五男・山野辺義忠派

両者対立。




《幕府の介入》

元和8年(1622)。

義俊支持派の松根光広(義光の甥)が、幕府老中・酒井忠世と本多正純にチクる。(証拠なく騒いだとして柳川藩立花氏へ預りの処分となる)

幕府、説得。和解案。

「ひとまず藩の領地を幕府が預かり、代わりに、新たな6万石を与える。現在の重臣共は、力を合わせて現藩主の義俊を盛りたてて補佐せよ。義俊が成長したあかつきに本領を返す」

義光五男・山野辺義忠派、反発。

やめとけー。


ほらみぃー。


《騒動の結末》

元和8年(1622)8月18日。

最上氏の出羽山形藩。幕命により、改易

山野辺義忠は備前岡山藩に追放(後に水戸藩家老)、山野辺義忠派家臣達は、佐倉藩主・土井利勝、豊前細川家に預りとなります。


しかし。

宗家の斯波武衛家は既に滅亡。

斯波氏の流れを汲む最上氏は断絶を惜しまれ、近江国蒲生郡に1万石の知行を改めて与えられます。

これが、大森藩。


ふっかーつ、だよー。

元和8年(1622)。

最上騒動により改易された最上義俊。

改めて、蒲生郡・愛知郡・甲賀郡、三河国内、1万石で大森藩立藩。


お家騒動のツケはえらく高くつきました。



しかし。

義俊の死後、子の義智が幼少であったために5000石に減知され(参勤交代等で財政が逼迫し、藩からの願いもあった)、廃藩。

子孫は旗本交代寄合として明治維新まで存続。

代々の最上家当主が崇敬したのが、ここ、大森神社。


ちびちゃん、ひとこと多い。


参考サイト
「最上騒動」wikipedia、他


いつも応援いただきありがとうございます。
お待たせ致しました。ようやくネタバレ解禁です。静かな静かなお社を散歩しながら、そうかぁ、ここへ来たのかぁ・・・と感慨無量。最上義光というとんでもない巨星の跡は、誰が継いでも物足りないでしょうが、よっぽど江戸暮らしの家親が鼻にツイタんかなぁ?幕府の思うつぼに嵌まった感じが抜けない東北の雄・最上氏の改易、ほんとに惜しい事ですね。

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