上月城や福原城ってどこにある?佐用町だよー

戦国時代末期の東西勢力が拮抗する狭間にあたるこの佐用町。
ここは在来の赤松一族が城郭群を形成していました。
それが、西の上月城、南の高倉城、東の利神城、その間の福原城。
【福原城】
伝・佐用兵庫介範家の築城。1300年代(鎌倉時代)。
その後、赤松三十六家衆のうち福原氏がその城を継いだので、福原城とも。
1577年、秀吉配下の官兵衛・半兵衛の活躍により落城。
孫子の兵法「囲師必闕(いしひっけつ)」を用いたのはここ。

全部塞いだら、中からは死に物狂いで討って出てくるからね。
後世、土地の人々によって、時の城主福原藤馬允則尚の首級を祀るため城跡に一社が造営され、「福原霊社(俗に頭様)」として今に広く崇敬されています。(官兵衛紀行でおば様がお参りしてたとこ)
【上月城】
伝・上月次郎景盛の築城。1300年代(鎌倉時代)。
上月氏が数代続いた後、山名、赤松、尼子が攻防を繰り返します。
1577年、福原城を攻略した秀吉は、高倉山に本陣を置き、上月城攻めにかかります。この時の城主は正確には不明。赤松政範とも上月氏とも。(ドラマでは上月氏)
城主が家臣の裏切りにより斬首され、秀吉んとこに持参。
ドラマでは信長が命じていましたが時間的にそれはありえず。
秀吉は裏切った家臣を許さず攻撃を続け、
「城中将士の首を悉くはねた上、見せしめの為、城中の女子供200人以上を磔と串刺しにして、備前美作播磨の国境附近にさらせ。」
と、命じました。
長浜歴史博物館で、他の城攻めで同様の残酷な措置をしたことを自慢気に記した秀吉の書状を見ました。
その時の博物館の展示テーマは
「秀吉の中国攻め」「『秀吉が来た!』」
ぎゃふん(昭和)。
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