清浄心院は上杉謙信祈願所・佐竹家菩提所。滝口入道も住んだのよ

屋島を脱け出した維盛が訪ねたのは、

元は滝口の武士であった斎藤時頼。

嵯峨往生院(跡地・京都市右京区)にて出家。
彼を追う横笛への思いを断ち切るために高野に登り、清浄心院に身を寄せます。

天長年間(824-834)に弘法大師空海が草創。
初め喜多坊と称し、後、勅命で現「清浄心院」に改めたと伝わります。
平宗盛が当院を再建。
※鎌倉時代の信堅院号帳には「八島大臣殿御建立也、実名宗盛」と残る。

奥の院の一の橋、目の前です。

辺り一帯は、このお寺にちなんで「清浄心院谷」と呼ばれます。

石畳の先に見えるのは

大師門。この奥に

大師堂。
本尊は、二十日大師(はつかだいし)。
入定を明日に控えた835年/承和2年3月20日、空海が自ら彫刻し、像背後に「微雲管」の三字を書いた像と伝わるそうで。

境内に沿った小路。

一の橋まで続くお寺の敷地です。ひろーい。

玄関

1860年/万延元年。火災に罹り、現在の堂宇はその後再建されたものです。

こそっと。

おはようございます。

頑張れ~(^^)

お高そうな彫刻群・・・。

めまいがします。くらー。

清浄心院も宿坊になっています。

戦国時代は、上杉謙信(長尾景虎)の祈願所、佐竹家の菩提所となります。
清浄心院の名前が知られる理由はこちらかもしれないですね。
上杉・佐竹の霊屋は奥の院にあります。

上杉謙信霊屋。重文。
「年未詳七月二四日の景虎書状ほか上杉景勝・定勝などの書状を多数蔵する。
景勝書状には『如毎年之、有御祈念、御巻数竝扇子薄板物贈賜候、珍重目出候、仍鳥目弐百疋進之候』とあり、天正七年(一五七九)二月一四日の上杉景勝書状には『去秋之芳翰、今二月到着、披覧、畏悦之至候、如仰、謙信去年不慮遠行、絶言語候』とある。
早速謙信廟が造営され、追善供養が行われている」(『大和・紀伊寺院神社大事典』平凡社編より)

佐竹家墓所。

佐竹義重霊屋(たまや)。重文。
「佐竹義重も逆修供養をしており(年未詳一〇月二五日『佐竹義重書状』寺蔵文書)、没後納骨された(慶長一七年五月一六日『佐竹義宣書状』寺蔵文書)。
以後同家の菩提所として縁深く佐竹義宣・義憲以下代々の書状が多数ある」(『大和・紀伊寺院神社大事典』平凡社編より)

卒塔婆形の角材を四方に47本並べ、壁にしている極めて珍しい霊屋建築として、重文に指定されています。

当方ではすっかり維盛くんのお世話係になっている滝口入道くんですが、

彼は高野山で、とっても頑張りました。
次回、滝口入道くんのおうち。
いつも応援いただきありがとうございます。見えているのは清浄心院のほんの一部。今でも広大な境内に緑が萌えています。滝口入道やら上杉謙信やら佐竹義重やらで、私の心も萌えています。宿泊したらさぞかし様々なものに出会えるんだろうなー。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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