ご主人様を待ってた狛犬。池田輝政が吐息した永井さんちの高槻藩
こんにちは。

高山右近の苛烈な布教に揺れた高槻城下。

式内社も遠慮なし。どんどん没収、どんどん破壊。

高槻を治める藩主がどんどん交代。
1619(元和5)年に高槻藩に入った松平家信は、城内の安全を祈願して牛頭天王社を新造するとともに、社領を寄進。しかし、松平家もよそへ転封。

ご主人様をずっと待ち続ける狛犬わんこが残されました。
1649(慶安2)年。運命の人が高槻藩に着任します。

それが、永井直清。本日紹介する永井神社の祭神様です。
誰。

父は、永井直勝。三河国碧海郡大浜郷(現在の碧南市音羽町)の人。
誰。
三河といえば徳川家康。
初めに仕えた信康自害後一時徳川を離れるも、家康に呼ばれて帰参し、小牧・長久手の戦いで、とある手柄を立て、こんなこと言われた人。

おわかりになりまして?
小牧・長久手の戦いで、討ち取った相手は、池田恒興。
そりゃもう、家康や織田信雄から賞賛されました。
池田恒興次男の輝政が家康次女を娶る時、輝政の求めに応じて長久手の戦いで恒興を討ち取った時の事を話した永井直勝。
この時直勝は5,000石。
輝政は父を討ち取った功績の価値が5,000石しかないのかと嘆息。
さすが家康。口では賞賛してもシワシワのケチケチです。
こんなエピソードを持つ直勝の次男が、高槻藩藩主となった永井直清。

わんこは一生愛してくれるご主人様を待っていました。

直清の兄・尚政は秀忠に仕え、宇都宮城釣天井事件で本多正純が改易された後、老中となりました。

1633(寛永10)年老中を解任後、山城国淀藩10万石へ入ります。

1649(慶安2)年、直清がここ、摂津国高槻藩藩主となります。

二人が京都に近い領地に配されたのは、兄弟共に有能であり幕府の信任が厚かったからでしょうか。

(唐門裏側の彫刻、おっとせい)
事実、兄の尚政は京都所司代と協力して京都や大坂の治安を担い、島原の乱が起こったときは、京都の守備を命じられます。

(あれ?おっとせいじゃなかった)
一方、直清は、京都所司代代理・大坂城代代理を歴任。
禁裏造営の奉行や大坂城普請を務めるなど、幕府からの信任が厚かったことがよくわかります。

三代将軍家光より拝領。高槻永井家専用紋の「永井鉄線」。

直清は藩政においても、城下町の整備や拡大、治水工事に努めて実高6,000石を増加させるなど、藩政の基礎を固めました。
直清は81歳で逝去。ご長寿でした。

待ってた甲斐があったね。よかったね。
狛犬わんこが笑顔だと、私も笑顔。

待ちくたびれて痩せちゃった?

カード使えますか?

丸っこいわんこもかわいいけど、柳腰もよいねぇ。

兄弟仲良し。平和がいいねー。
拝殿の彫刻祭。

高槻藩は、永井直清以降、明治維新まで永井家が治めます。

永井神社は、1793(寛政5)年、9代藩主直進(ちょくしん、じゃないよ。なおのぶ、だよ。京都火消役をしたんだよ)が藩祖の永井直清の霊神を祀り創建。
鳥居に、京都卜部家より「直清霊神」の号を受けたことが記されています。

高槻城内三の丸にあった野見神社境内の本殿東側に隣接。
当初は「直清神社」と称しました。

1848(嘉永元)年。
直清入城200年を記念して第11代直輝が社殿を修復し、新たにそり曲がった曲線状の破風の唐門と拝殿を造営。

後ろ足がたまりません。
仲良きことは美しき哉。

幕末には「直清権現」と呼ばれ、当時の藩士は親しみをこめて「権現様」と参拝していました。
やがて明治維新となり、高槻城は解体され、石垣や木材は国鉄の線路の敷石へと使われ跡形も無くなりました。

明治21年。旧藩士領民達がその遺徳を讃え東側に石碑を建立。
永井の殿様がいかに慕われていたかを思うと、泣けてきてしまいます。

今も野見神社と永井神社境内はご近所さんの憩いの場になっています。
参考資料
野見神社・永井神社由緒。現地説明板による。
野見神社・永井神社
住所・大阪府高槻市野見町6-6
いつも応援いただきありがとうございます。各地を廻ると、お殿様がどう思われていたのかが自然と伝わってしまいますよね。高槻は高山右近ばかりがフューチャーされますが、池田輝政のがっかり話ネタの(美形との噂の)永井パパと、京都と大阪を抑える「仲良しこよし」永井兄弟にも着目いただければこれ幸い。小躍りしてブランデーを飲みまくります。うきゃきゃ。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

高山右近の苛烈な布教に揺れた高槻城下。

式内社も遠慮なし。どんどん没収、どんどん破壊。

高槻を治める藩主がどんどん交代。
1619(元和5)年に高槻藩に入った松平家信は、城内の安全を祈願して牛頭天王社を新造するとともに、社領を寄進。しかし、松平家もよそへ転封。

ご主人様をずっと待ち続ける狛犬わんこが残されました。
1649(慶安2)年。運命の人が高槻藩に着任します。

それが、永井直清。本日紹介する永井神社の祭神様です。
誰。

父は、永井直勝。三河国碧海郡大浜郷(現在の碧南市音羽町)の人。
誰。
三河といえば徳川家康。
初めに仕えた信康自害後一時徳川を離れるも、家康に呼ばれて帰参し、小牧・長久手の戦いで、とある手柄を立て、こんなこと言われた人。

おわかりになりまして?
小牧・長久手の戦いで、討ち取った相手は、池田恒興。
そりゃもう、家康や織田信雄から賞賛されました。
池田恒興次男の輝政が家康次女を娶る時、輝政の求めに応じて長久手の戦いで恒興を討ち取った時の事を話した永井直勝。
この時直勝は5,000石。
輝政は父を討ち取った功績の価値が5,000石しかないのかと嘆息。
さすが家康。口では賞賛してもシワシワのケチケチです。
こんなエピソードを持つ直勝の次男が、高槻藩藩主となった永井直清。

わんこは一生愛してくれるご主人様を待っていました。

直清の兄・尚政は秀忠に仕え、宇都宮城釣天井事件で本多正純が改易された後、老中となりました。

1633(寛永10)年老中を解任後、山城国淀藩10万石へ入ります。

1649(慶安2)年、直清がここ、摂津国高槻藩藩主となります。

二人が京都に近い領地に配されたのは、兄弟共に有能であり幕府の信任が厚かったからでしょうか。

(唐門裏側の彫刻、おっとせい)
事実、兄の尚政は京都所司代と協力して京都や大坂の治安を担い、島原の乱が起こったときは、京都の守備を命じられます。

(あれ?おっとせいじゃなかった)
一方、直清は、京都所司代代理・大坂城代代理を歴任。
禁裏造営の奉行や大坂城普請を務めるなど、幕府からの信任が厚かったことがよくわかります。

三代将軍家光より拝領。高槻永井家専用紋の「永井鉄線」。

直清は藩政においても、城下町の整備や拡大、治水工事に努めて実高6,000石を増加させるなど、藩政の基礎を固めました。
直清は81歳で逝去。ご長寿でした。

待ってた甲斐があったね。よかったね。
狛犬わんこが笑顔だと、私も笑顔。

待ちくたびれて痩せちゃった?

カード使えますか?

丸っこいわんこもかわいいけど、柳腰もよいねぇ。

兄弟仲良し。平和がいいねー。
拝殿の彫刻祭。

高槻藩は、永井直清以降、明治維新まで永井家が治めます。

永井神社は、1793(寛政5)年、9代藩主直進(ちょくしん、じゃないよ。なおのぶ、だよ。京都火消役をしたんだよ)が藩祖の永井直清の霊神を祀り創建。
鳥居に、京都卜部家より「直清霊神」の号を受けたことが記されています。

高槻城内三の丸にあった野見神社境内の本殿東側に隣接。
当初は「直清神社」と称しました。

1848(嘉永元)年。
直清入城200年を記念して第11代直輝が社殿を修復し、新たにそり曲がった曲線状の破風の唐門と拝殿を造営。

後ろ足がたまりません。
仲良きことは美しき哉。

幕末には「直清権現」と呼ばれ、当時の藩士は親しみをこめて「権現様」と参拝していました。
やがて明治維新となり、高槻城は解体され、石垣や木材は国鉄の線路の敷石へと使われ跡形も無くなりました。

明治21年。旧藩士領民達がその遺徳を讃え東側に石碑を建立。
永井の殿様がいかに慕われていたかを思うと、泣けてきてしまいます。

今も野見神社と永井神社境内はご近所さんの憩いの場になっています。
参考資料
野見神社・永井神社由緒。現地説明板による。
野見神社・永井神社
住所・大阪府高槻市野見町6-6
いつも応援いただきありがとうございます。各地を廻ると、お殿様がどう思われていたのかが自然と伝わってしまいますよね。高槻は高山右近ばかりがフューチャーされますが、池田輝政のがっかり話ネタの(美形との噂の)永井パパと、京都と大阪を抑える「仲良しこよし」永井兄弟にも着目いただければこれ幸い。小躍りしてブランデーを飲みまくります。うきゃきゃ。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。