僧侶だってキリシタン。右近城下野見神社の受難。
こんにちは。

高山じゅすと右近様の高槻城界隈。

野見神社のご紹介。

【祭神】須佐之男命、野見宿禰命
【創祀】9世紀後半第59代宇多天皇の御宇。この地方に悪病が流行し、死者多数の折、ご神託あり。

牛頭天王は、災厄・疫病を追い払うと言われていたことから、早速お祀りしたところ、悪病はたちまち終息。
皆、大いに喜び、ここに社殿を造り、牛頭天王社として祀りました。これが野見神社の創祀。
ちなみに牛頭天王総本宮は、

黒田官兵衛縁の広峯神社。じい様の目薬に広峯神社のお札を付けて御師達が売りさばき、がっぽり。
京都の八坂神社も広峯神社と同様に牛頭天王を祀ります。祇園祭は疫病退散のお礼のお祭り。
さて、お参りしましょ。

え。

入るかー!

きつーく叱って下さい。

え、そこ?
野見神社は、享禄・天文年間には高槻城主入江駿河守、和田伊賀守などの崇敬を集め、社領の寄進などもあり平和に時が流れていました。
しかし、高槻城に高山じゅすと右近父子が入って激動の時代へ。

高槻城城内に鎮座していた式内社の野見神社は、右近の父・友照により社殿破壊の上、社領没収。同地に高槻天主堂教会を建てます。

時の神職はご神体を石清水八幡宮にお引っ越し。
高山右近の布教の腕は天下一品。でもこんな苛烈なことするから・・・

ねえねえ奥さん、畿内なのに高槻市内には神社やお寺が皆無なんですってねー!なんて言われるのよ。(そんなことないです。あります。)

ただひたすら一途に神を信じた高山右近。
右近が船上城(明石)へ転封となった後の高槻城下は秀吉の直轄領となり、やがて新庄直頼が治めるも関ヶ原で西軍に付き改易。
1615(元和元)年、内藤信正が入り高槻藩が立藩。高槻城を改修、増築。
以降、土岐定義・松平家信・岡部宣勝・松平康信(家信次男)等、高槻藩藩主は目まぐるしく変わります。

その中で、1619(元和5)年に高槻藩に入った松平家信は、城内の安全を祈願して牛頭天王社を新造するとともに、社領を寄進。

1649(慶安2)年に新たな藩主となった永井直清。

更に社殿を修築し、社領を寄進して例祭日を10月14日と定め、臣下・領民とともに盛大な祭礼を行うようになりました。

高槻藩永井家初代・永井直清を祀る永井神社。
この永井家は明治維新まで高槻藩を治めます。
江戸時代には城内随一の神社として「高槻城絵図」に記される野見神社に、再び激動の時が到来するのは、明治元年。

神仏分離令により、牛頭天王は「須佐之男命」と名を変え、更に野見宿禰命を合祀して、「野見神社」と改称。
延喜式内社として郷社に列し、神饌幣帛料進社に指定されました。
やれやれ。

むいー?

そろそろ秋の花粉症のオンシーズンです。
参考資料
野見神社由緒。現地説明板による。
野見神社
住所・大阪府高槻市野見町6-6
いつも応援いただきありがとうございます。高山右近。その苛烈っぷりに惚れ直します。やるときゃやる男です。野見神社近隣はキリシタン墓地。ロザリオを胸に抱いた信者の遺骨が出土。とても不思議な所です。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

高山じゅすと右近様の高槻城界隈。

野見神社のご紹介。

【祭神】須佐之男命、野見宿禰命
【創祀】9世紀後半第59代宇多天皇の御宇。この地方に悪病が流行し、死者多数の折、ご神託あり。

牛頭天王は、災厄・疫病を追い払うと言われていたことから、早速お祀りしたところ、悪病はたちまち終息。
皆、大いに喜び、ここに社殿を造り、牛頭天王社として祀りました。これが野見神社の創祀。
ちなみに牛頭天王総本宮は、

黒田官兵衛縁の広峯神社。じい様の目薬に広峯神社のお札を付けて御師達が売りさばき、がっぽり。
京都の八坂神社も広峯神社と同様に牛頭天王を祀ります。祇園祭は疫病退散のお礼のお祭り。
さて、お参りしましょ。

え。

入るかー!

きつーく叱って下さい。

え、そこ?
野見神社は、享禄・天文年間には高槻城主入江駿河守、和田伊賀守などの崇敬を集め、社領の寄進などもあり平和に時が流れていました。
しかし、高槻城に高山じゅすと右近父子が入って激動の時代へ。

高槻城城内に鎮座していた式内社の野見神社は、右近の父・友照により社殿破壊の上、社領没収。同地に高槻天主堂教会を建てます。

時の神職はご神体を石清水八幡宮にお引っ越し。
高山右近の布教の腕は天下一品。でもこんな苛烈なことするから・・・

ねえねえ奥さん、畿内なのに高槻市内には神社やお寺が皆無なんですってねー!なんて言われるのよ。(そんなことないです。あります。)

ただひたすら一途に神を信じた高山右近。
右近が船上城(明石)へ転封となった後の高槻城下は秀吉の直轄領となり、やがて新庄直頼が治めるも関ヶ原で西軍に付き改易。
1615(元和元)年、内藤信正が入り高槻藩が立藩。高槻城を改修、増築。
以降、土岐定義・松平家信・岡部宣勝・松平康信(家信次男)等、高槻藩藩主は目まぐるしく変わります。

その中で、1619(元和5)年に高槻藩に入った松平家信は、城内の安全を祈願して牛頭天王社を新造するとともに、社領を寄進。

1649(慶安2)年に新たな藩主となった永井直清。

更に社殿を修築し、社領を寄進して例祭日を10月14日と定め、臣下・領民とともに盛大な祭礼を行うようになりました。

高槻藩永井家初代・永井直清を祀る永井神社。
この永井家は明治維新まで高槻藩を治めます。
江戸時代には城内随一の神社として「高槻城絵図」に記される野見神社に、再び激動の時が到来するのは、明治元年。

神仏分離令により、牛頭天王は「須佐之男命」と名を変え、更に野見宿禰命を合祀して、「野見神社」と改称。
延喜式内社として郷社に列し、神饌幣帛料進社に指定されました。
やれやれ。

むいー?

そろそろ秋の花粉症のオンシーズンです。
参考資料
野見神社由緒。現地説明板による。
野見神社
住所・大阪府高槻市野見町6-6
いつも応援いただきありがとうございます。高山右近。その苛烈っぷりに惚れ直します。やるときゃやる男です。野見神社近隣はキリシタン墓地。ロザリオを胸に抱いた信者の遺骨が出土。とても不思議な所です。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。