熱田神宮(3)戦前の本宮と信長塀、暑くない西行と椿

こんにちは。


迷子になったら、ここで待つ。


本宮は大にぎわい。


私が知ってるあったさんでは、ない。あれ?


私が知ってるのはこっち。おおっ後ろの木々はそのまんま♪


社殿は、再建以来50余年を経て、大屋根の葺替えをはじめ授与所・神楽殿の修造時期を迎えたことから、平成19年10月22日「仮殿遷座祭」を齋行。

約2年の歳月をかけて事業は竣功し、平成21年10月10日に「本殿遷座祭」、翌11日に「臨時奉幣祭」を晴れて斎行。

4年後の平成25年、創祀千九百年の慶節を真新しい社殿でお迎えしました。



なるほど、私が知ってる姿は、修造前なのですな。


屋根の色が違うとこんなに違う。ふむ。

ちなみに熱田神宮本宮ですが、

明治26年までは尾張造の社殿でしたが、三種の神器奉斎の社であることから伊勢の神宮とほぼ同様の社殿配置・規模の神明造りに改造されました。

とのこと。


明治の社殿といわれる画像。

・・・尾張造の何がご不満だったのか知りませんが、熱田神宮としてのプライドはどこへ。

ぶつぶつぶつ。


伊勢神宮風に建て替えられた、戦争で焼失する前の本宮。

昭和20年6月9日、熱田空襲。
それまでも2回、3月と5月に爆撃を受けています。


のぶながべぇーも、今は塀だけが残っていますが、


かつては門に付属する築地塀でした。


木立の中に、ひっそりこっそり。


東八百萬神社。祭神・東国坐八百万神


お向かいには、西八百萬神社。祭神・西国坐八百万神

あったさんの東西の全ての神を祀るとか。

ふむ。

他の神社へ行かなくてもここだけでいいかしら、なーんて思ってしまったり。


名古屋最古の石橋と伝わる二十五丁橋です。

板石が25枚なので、二十五丁橋。わかりやすい♪


西行がこの橋に腰かけて「これほど涼しい宮を誰が熱田と名をつけた」といったとか。(名古屋甚句)

名古屋の暑さを知らないな?ふっふっふ。


神宮南門のお隣の、別宮八剣宮(べつぐうはっけんぐう)。


元明天皇和銅元年(708)9月9日。
勅命により神剣をつくり、境内に社を建てて祀ったことが創祀です。

建築様式をはじめ、年間の祭典・神事に至るまで全て本宮に準じて執り行われます。

古来、武家の信仰が殊に篤く、

天正3年、織田信長は長篠に出兵の際社殿の修造を命じ、
慶長4年、家康は拝殿・回廊・築地の修造を、
貞享3年、将軍綱吉は本殿の造替を行った

等の記録が残っています。





ここはね、椿がきれいなのよ。


太郎庵椿です。

樹齢3百年を越える淡紅の花をつけるやぶ椿の一種で、江戸中期古渡に住む高田太郎庵という茶人が愛好したことで、この名があります。

全国的に数少ない銘木で11月末から3月まで咲き、開花の時期が長いことでも知られます。



「ひこばえ」だそうです。


なかなかの大木なんですよー♪


熱田神宮
《住所》名古屋市熱田区神宮1丁目1−1




いつも応援いただきありがとうございます。
懐かしい思い出がいっぱいの熱田神宮。久しぶりのお詣りは人が多かったですが、境内は広大なので本宮以外はストレスなくお散歩できます。熱田神宮の歴史や文化に触れたい方は境内の宝物館を見るのが一番かと。外見は地味ですが、中身は素晴らしいです。

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熱田神宮(2)熱田神宮焼失。熱田空襲と愛知時計電機

こんにちは。


大楠さんも、元気でした。


本宮は大にぎわい。


両親の分もご挨拶。

さてこちらの熱田神宮ですが、昭和20年3月と5月の2回の戦災により本宮が焼失しています。

境内の数々の国宝も焼失。


戦前の熱田神宮本宮です。

現在の社殿は伊勢神宮の式年遷宮の際の古用材を譲り受け、昭和30年10月に造替されました。


【熱田空襲】

熱田区一番町、白鳥橋周辺は、戦時中、軍用機メーカー愛知航空機(現・愛知機械工業)の工場、住友金属工業名古屋工場、愛知時計電機の工場が立ち並ぶ軍需工場集中地。


名古屋の歴史に熱田神宮などは無論ですが、軍需工場が多かったことも必ず語らねばならないと思います。

これが結果としてアメリカ軍の標的となり、名古屋大空襲となり、甚大な被害を受けるのですから。


《愛知時計電機》

他の地方の方には耳慣れない企業名と思います。


元は時計を作る「愛知時計製造」であった「愛知時計電機」は、明治より精密機械製造の実績を買われて、陸軍や海軍か爆弾の信管など精密兵器の注文が入る兵器生産を重点に据える企業となり。

大正年間には1号機を完成させ、「愛知時計電機」は「三菱重工業」・「中島飛行機(富士重工業の前身)」と共に、日本を代表する航空機製造企業へ。

広大な面積を必要とする航空機工場を現在の熱田区「千年船方」に飛行機組立工場、機械工場を完成させます。


愛知時計電機本社工場/『名古屋市全図』昭和8年発行より


瑞穂工場で製造していた時計部は分離独立させ「愛知時計株式会社」として、「愛知時計電機」は軍需製品専門の企業に。


どんな航空機を作っていたかというと。

車輪を持たず水面に離着水する飛行艇や水上機、空母に離着艦する艦載機など、海軍に納品する航空機が中心。

真珠湾攻撃に参加した「九九式艦上爆撃機」、戦艦などに搭載して偵察時に発進する「零式水上偵察機」や航空母艦に搭載する「彗星」などを生産。



愛知時計電機の航空機製造/『愛知県史』資料編第30巻より


昭和18年、他の兵器生産と切り離した航空機専門の会社「愛知航空機株式会社」を設立。
昭和19年12月7日の東南海地震で工場は大きな被害を受けます。

※戦時中のため秘された東南海地震です。


《熱田空襲》

愛知航空機(現・愛知機械工業)、住友金属工業名古屋工場、愛知時計電機本社工場では、従業員や学徒動員された生徒達、合計約2万2千名が就労。


昭和20年6月9日。


午前8時24分、空襲警報発令

アメリカ軍130機が琵琶湖方面から大阪方面へ向かったため、

午前8時45分、空襲警報を解除。

従業員・動員学徒達は工場へ戻り。

ところが、40機余りが名古屋を急襲。


午前9時15分。再び空襲警報発令。

午前9時18分。空襲第一波。


アメリカ軍B29爆撃機47機から1トン爆弾を含む総計278トンによる集中爆撃。

航空機生産工場「愛知時計電機」「愛知航空機」を第一目標とする爆撃です。

わずか10分の空襲で、地域住民併せて全体としては2千名余りの死者が出ました。


一旦出されていた空襲警報が解除となったことで、退避していた人々が職場へ戻ったところを爆撃されたことで被害が拡大。

愛知時計電機で、死者1176~1314名。
愛知航空機で、死者567~663名。
住友金属工業名古屋工場で、死者162~192名。

一般市民は、348名。

あわせて2253~2516名にも及ぶ犠牲者が出ました。

これは、名古屋大空襲の中でも最大の犠牲者数です。

忘れてはいけない事です。




学徒動員により他の工場で級友の大半を失った母はいつも、皆さんが心安らかにお眠りできますようにお願いしなさいと。


ご縁があって熱田神宮へおまいりの際には、この熱田空襲の事を少しだけ思い出していただけたらと存じます。


参考文献
『愛知時計電機85年史』(愛知時計電機株式会社/1984年)


いつも応援いただきありがとうございます。
愛知時計電機を責めるつもりはありません。各社の工場が立ち並んでいた名古屋ですから、当時のアメリカ軍の爆撃の標的となったことはわかります。しかし、何十年経っても心の中に辛い思い出として残ることは事実。母は多くを語りたがりませんでしたが、熱田神宮へ来るときには必ずお花を供養碑等に供えておりました。

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熱田神宮(1)清雪門と佐久間燈籠。ちびっこがご案内

こんにちは。


熱田神宮。東門の鳥居。

言わずと知れた三種の神器「草薙剣」をご神体とする熱田神宮。

名古屋人は、あったさん、と呼びます。


思ひでいっぱいの熱田神宮能楽殿を後にして。


木立の中にちょろりと現れたのは


高さ8メートルの巨大な石燈籠、佐久間燈籠です。

寛永7年(1630)5月、佐久間大膳亮勝之が海難にあい、当神宮に祈りその加護によってことなきをえたのを感謝して寄進。

佐久間氏の拠点は、熱田神宮鬼門の鎮守である


御器所(ごきそ)八幡宮界隈。


嘉吉年間(1441‐1444)佐久間美作守家勝が築いたという西城跡。

御器所西城主・佐久間玄蕃盛政は、東名名古屋インターのある「上社(かみやしろ)」付近を拠点とした柴田勝家(盛政母の兄)に従い、北陸へ。


浅ひろ東名店のあんかけきしめん。むふふふ。

さ、あったさんへ戻りまして。


ここで「灯台だよー」と言うのがお約束。

お宮参り、七五三、成人式、人生の節目は、あったさん。

昔々は境内にそれはそれは気の強い「チャボ」がいましてね。

野良犬に襲われるから、夜は木の上で寝るというチャボ。


これがちびっこに向かって突進してきて、ケリをいれるわ頭にのるわ。

昔の名古屋っ子には共通の思い出です。


清雪門(せいせつもん)。別名、不開門(あかずのもん)。

元は熱田神宮本宮の北門といわれる門。


天智天皇7年(668)新羅の僧が神剣を盗み出しこの門を通った(草薙剣盗難事件)といわれ、以来不吉の門として忌まれたとも、神剣還座の際門を閉ざして再び皇居へ遷ることのないようにしたとも伝えられています。


新羅の僧「道行」による盗難後、一時的に宮中に置かれますが、天武天皇が病に倒れ。
その病の原因は「草薙剣の祟り」とされ、熱田神宮へ戻されますが、天皇は崩御。

まぁ、怖い。

で、その草薙剣を含む三種の神器は、壇之浦で海の底へ。


唯一見つからなかったという草薙剣は、崇神天皇の時代に作られた「草薙剣の形代」だそうです。

その後伊勢神宮から送られた神剣を「草薙剣の形代」とし、偽造されたり奪われたりと散々な目に遭った後、現在は皇居の「剣璽の間」に勾玉とともに安置。

ふぅーん。

本物だったら、ここは「不開門」どころかフルオープンの門。


本物はずっと熱田神宮ね。

難しいことは検索してくだされ。


お約束。

一応、「刀はここだよ」の図。トイレじゃない。


池の鯉にあげるために、おうちからお麩持参。


お約束。信長塀。

あちこちをこんなスリコミされながらおまいりして、いろんな社殿をうろちょろするうちに、いつしかはぐれることもありまして。

はぐれたら、親子で決めてある待ち合わせの場所へ。


なぜここだ。


いつも応援いただきありがとうございます。
待ち合わせ場所の奉納酒樽の山は、本宮前の手水舎や大楠がある広いスペースにあり目立ちます。おほほ。大人になっても、灯台だの、のぶながべーだのと言いながらおまいり出来るのは楽しかったです。今思うと、両親は子供でもわかるように教えてくれてたんだなーっと。

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